1、異世界
深く、黒いものが空を舞う。
一羽の烏が、空に向かって鳴いていた。丸い瞳をクルクルと動かして、時々、首を傾けながら。
1、異世界
初めに感じたのは、背中のごつごつしたものだった。そして、鳥のさえずりと、葉の擦れる音が優しく辺りを包んでいる。
穏やかな風が運ぶのは、芽吹いたばかりの若草の緑の匂いと、濃い土の匂い。それらと共に、瞼を透かして光を感じる。うっすらと瞼を開くと、とたんに鮮明な青が目に飛び込んで来た。
(ここは…)
眩しさに目を細めながら、必死に状況を理解しようとする。頭がぼんやりとしていた。痛みは、もうない。
木々の葉が揺れ、キラキラと木漏れ日がさしている。青は、空だった。ごつごつしたものは、体の下の小石や小枝。そして柔らかな土と、間から顔を出す、様々な草花たち。
――ここは、どこだ。
私は、慌てて飛び起きた。
「なんで…私っ、教室に…ここ…山?」
どう見ても、ここは教室じゃない。学校の近くでもない。まったく知らない場所だった。これも夢なのだろうかと、思わずベタな漫画か何かみたいに頬を抓ってみた。
「………」
普通に、痛い。
というか、こんなことをしなくても夢かどうかなんてすぐにわかる。ただ、認めたくないだけだ。
私は呆然と立ち尽くす。
だって、どうしようもなくリアルだ。音も、匂いも、感じるものすべてが何もかも。
何がどうなっているんだろう。混乱して、うまく考えることができない。私はこんなに焦っているのに、木々はただ悠然と葉を揺らしているだけだ。
『――何かいる』
ふいに、その木々の間からひそひそと囁くような声がした。私はびくりと肩を震わせて辺りを見回す。けれど、相変わらず風に揺れる草木以外は何も見えない。声だけが響いてる。
『何かいる』
『何かいるよ』
夢の声とも違うそれは、幼い子供のような甲高い声だった。囁くようだった小さな声が、だんだんと数を増やして、反響するようにして大きくなっていく。
『人間?』
『人間の匂いだ』
『人間の匂いがする』
私は腰を抜かして、へたりとその場に座り込んだ。
「何…なんなの…っ」
得体の知れないそれは、私を囲むようにして騒いでいた。
揺れる。揺れる。草木が揺れる。穏やかだったものが、ざわざわと、不安を掻き立てるように、風に吹かれて揺れている。
(風……?)
ハッとした。頬を撫ぜる風を、髪を巻き上げる風を、感じない。
風なんて、吹いていないのだ。
(じゃあ、あれは、何)
『人間だ!』
『人間だ!』
(あれは、何!)
恐ろしくてもう目を閉じてしまいたいのに、私の目は不自然に揺れる木から離れなくなってしまった。
そこには、影があった。
木々の後ろに伸びる、黒々とした長い影。
本当に真っ黒だった。深い、深い闇だ。
底の知れない、深い闇。それが囁きながら、細長い手を伸ばして、ざわざわと木の葉を揺らしているのだ。
いつの間にか、木漏れ日なんて無くなっていた。眩しかった空の青は、雲に覆われて見えなくなっていた。光が、消えたのだ。
「あ…」
私は、恐怖に目を見開いた。
闇が、私に向かって伸びてくる。
手を、伸ばしてくる。
『ああ…』
闇は、うっとりとした声で囁いた。
『―――うまそうだ…』
「――!」
喰おうとしている。これは、私を喰おうとしてるんだ!
「やだ…やだっ、来ないでよ…!」
私は、震える声で叫びながら、それでも真っ黒な手から目を逸らせなかった。
闇が、伸びてくる。ゆっくりと、私に向かって、ゆっくりと。
(逃げないと…逃げないと…早く、逃げないと……!)
頭の中ではその言葉ばかりがぐるぐると回っているのに、体はまったく動いてくれなかった。ただ情けなく震えるだけで、力が入らない。
真っ黒な手が、私を囲む。どこから喰おうか考えているみたいに、ゆらゆらと揺れている。
『うまそうだ』
『うまそうだ』
『うまそうな生娘だ』
闇が、私に触れる――
――ギャアア!!
「!!」
突然響いた烏の鳴き声。ハッとして、私は弾かれたように腰を上げた。
逃げろ。逃げろ、逃げろ!
脳の叫びに答えるように、一気に体の感覚が戻ってくる。転びそうになりながら、私は身を翻して駆け出した。
慣れない山道を必死に走った。何度も木の根や滑る土に足を取られながら、それでも必死に走った。
後ろからギャアギャアと騒ぐ烏の声と、激しい羽ばたきの音が聞こえる。子供のような声が何か叫んでいた。いったい何が起きているのか。あの手は追って来ているのだろうか。確かめたくても、振り返る勇気はない。というより、余裕がない。
普段、運動なんてまったくしない私の体は、すぐに悲鳴を上げ始めたのだ。
口の中はカラカラになって、血の味がした。肺が空気を求めて喘いでいる。心臓が胸を突き破ろうとする。足が徐々に鉛のように重くなり、思うように動いてくれなくなった。
それでも、私は走り続けた。怖くて怖くて怖くて、ただひたすら木々の間を縫って走った。その時、
「あっ…!」
何かに足を引っ掛けて、ぐらり、体が傾く。しかも場所が悪かった。目の前がちょうど、崖のような急斜面になっていたのだ。
慌てて近くに伸びていた枝を掴むも、ボキッという嫌な音を立てて呆気なく折れてしまった。
一瞬の浮遊感。
私は悲鳴を上げる。
木や岩が突出た斜面に向かって、私は頭から転がり落ちた。
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