1、開いた扉





夢を、見ていた。




そこには、何もなかった。どこまでも続く、果てのない、ただひたすらに白い世界。そこに、私は一人ポツンと立っている。

痛いほどの静けさだった。何もない。いつも当たり前にあるはずの、頭の上の空も、足の下にあるはずの大地も、頬を撫ぜる風も。声を出してみても、耳には何も届かない。歩いてみても、世界はどこまでも白いだけだから、進んでいるのかさえわからない。

意味もなく、私はただ、そこに『在る』だけだった。

幽霊に追いかけられるわけでも、怪物に襲われるわけでもないその夢が、私は何故か酷く恐ろしかった。




1、開いた扉





雨が降っている。絶え間なくガラス窓に叩き付けられる雨粒たちはいくつかの小さな川となり、集まったり別れたりしながらどんどん流れ落ちてくる。その川の向こうでは鉛色の厚い雲が空を覆い、鬱々とした雰囲気を醸し出していた。ぼんやりと頬杖をついてそれを眺めていた私は、六時間目の終わりを告げるベルの音に驚いて、思わず大きく肩を揺らす。

あちこちから、椅子を引いて立ち上がる音が一斉に響き始めた。すぐに、がらがらと戸を開け教室から飛び出して行く生徒たちの歓声も混じり出す。

一気に現実へと引き戻され、私は一人席についたまま、ゆるゆると頭を振った。こめかみを押さえ、小さく息を吐く。

(……嫌な、天気だな…)

ちらりと、先程まで眺めていた四角い窓の外を見る。止む気配のない雨。どんよりとした空の色。ジクジクと、頭の奥が痛んだ。

昔から、雨の日は、いつもこうだ。

「鈴木さん、大丈夫?」

ふいにかけられた声に顔を上げると、首を傾げながらこちらをのぞき込むクラスメイトがいた。慌てて手を引っ込めて、大丈夫だと小さく笑ってみせる。

「そう…?なら、いいけど」

そう言って笑い返す彼女。明るく気さくで、誰にでも優しい彼女は、クラスの人気者だった。現に今も、たいして仲良くもない自分を気に懸けてくれている。彼女は「それじゃあ、また明日」と微笑むと、綺麗な長い髪を翻して離れて行った。そのまま戸の近くで待っていた友人達と、楽しそうに笑いながら教室を出て行く。

私は「また明日…、」とその背に小さな声で呟いた。

私は彼女が苦手だった。あまりにも、自分と違いすぎて。口下手で、人見知りで、堂々と『友達』と呼べるような人もいない自分。昨日見たテレビのこととか、明日の授業のこととか、そんなくだらないことを一緒に話せる人はいる。だけど皆、上辺だけの付き合いだ。お互い本心なんて隠してる。今は笑っていても、何かしら都合が悪くなると、すぐに離れていくのだ。


さり気なく、残酷に。




『――透ちゃんといると、私までいじめられるから』



頭が、痛い。

頭蓋の内側から、金槌で叩かれているようだ。耐えきれなくて、崩れるように机に伏せた。気付けば、教室の中には私一人だけになっている。

聞こえるのは、窓に叩き付けられる雨の音。吹き荒れる風の声。人の気配が、ない。私を待っている人は、いない。

一人だ。どうしようもなく、独りだった。私は、誰にとっても必要じゃない。

「…っ!」

ズキン!と一際鋭い痛みが頭を襲う。なんだろう。いつもより酷い気がする。ギュッと目を閉じて、背中を丸めた時だった。痛みで頭がうまく働かない中、ふいにドキリとした。

だって、変だ。

おかしい。人の気配がなさすぎる。

廊下を歩く足音も、放課後の他愛もないおしゃべりも聞こえない。他のクラスの人達も、誰も残ってないの?部活に行っている生徒達は?教室の見回りをする先生は?

たまたまこの場の近くに人がいなかっただけだとして、それでも、この静寂は何かがおかしかった。

気付いて、さらにドキリとする。

雨の音が、止んでいる。風の声が聞こえない。

顔を上げるのが恐ろしかった。

これは…これでは、まるで。

そうだ。この不自然な静寂は、夢と同じ――


『そうだ。これはお前の夢。ただの夢さ』

「!」


突然響いたその声に、私は弾かれたように顔を上げた。

そこはやはり、あの白い空間だった。机も椅子も消えて、私はいつものように、一人ポツンと立っていた。

ただ、一つだけ違うのは、"声"があること。私は、治まらない頭痛に耐えながら、両手をきつく握り締めた。その手は、じっとりと嫌な汗を掻いている。きっとこれは、痛みのせいだけじゃない。



『ねぇ、ここの何が恐いのさ。君は、何に怯えているの』



男のような、女のような、子供のような、老人のような、不思議な声。話し方まで変わる。姿は、見えない。

「…あなたは、誰」

自分で出したのに、響いた声に驚いてしまう。この空間で、自分の声を聞くのは初めてだった。

"声"は、しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと答えた。

『…私は、――』

「え…?」

何故か、名前を言うときだけ、"声"が消えてしまった。

『俺は、――』

「何…聞こえないよ…」

制服のスカートで、手汗を拭う。乾いた唇をなめた。

「ねぇ、ここはなんなの…夢なら覚めてよ、もう、いや…ここは、いや…!」

意味もなく、恐怖が募る。

ここは、恐い。
こわいのだ。


『何が、こわいのだ?』

ゆっくりと話す"声"は、どこまでも穏やかだった。静かに、風がそよぐように。

けれど私は、何故か、この"声"を聞くと無性に不安になった。心がざわつくのだ。



『――教えてあげようか』



――ザワリ、心が、震える。


「…いや…だ」


恐怖が、さらに大きくなった。知っているのだ。この"声"は、全て。聞きたくない。聞いたら、何かが壊れてしまう気がした。知ってはいけない気がした。

耳を塞いで縮こまった。幼い子供のように、いやいやと首を振る。

(聞きたくない、…知りたくない――…!)




『ここは、映すからだ。わかってしまうのさ。君は…お前が――――』




――ズキン!!





私は声にならない叫びをあげて崩れ落ちた。"声"を拒絶するように、今までにないくらい激しい痛みが頭を襲ったのだ。

頭の中で光が弾けて、グニャリと視界が歪む。

白だけの世界が真っ暗になって、私の意識は、そこでプツンと途切れてしまった―――。


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あきゅろす。
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