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俺のヴァージンロード
18(由耶side)

 紫蘭の――否、煉の、腕の中。不思議なもので、見た目が違うと抱き締められた感触までもが違うように思える。それは、やはり何と言うか男の腕で、男の肩で。今までは気付かなかった硬さとか、細身ではあっても女性よりはずっとしっかりした骨格とか筋肉とか、そういうものを煉のシャツ越しに感じていた。
 嫌とは思わない。紫蘭に抱き締められている時みたいなフワフワした気持ちはないけれど、意外にもそれなりに幸せで、ずっとこうして煉の肩口に頬をすり寄せて甘えていたいとまで思えた。

 微かに震えてる煉の身体。本当は男なのだと言えずにいたことを、煉はどれだけ苦しんでいたんだろう。紫蘭が男と知って、俺も確かに悩みはしたけれど、彼の苦悩はきっともっと深かったはず。
 ごめんね、と胸の中だけで、後悔と共に謝罪を繰り返す。わかってあげられずにいて、ごめん。苦しませて、ごめん。自分のことで手一杯になってしまって、思いやることを忘れていた。
 たとえ見た目や印象は変わっても、紫蘭と煉は同じひとなんだってこと。どちらも俺の大切な恋人なんだってこと。早く気付けなかった自分をこれから幾度も思い出して、俺はその苦さを噛み締めるだろう。
 今になって思う。枷を填めていたのは、男同士の恋愛なんてあり得ないという、俺の偏見だったんだと。つまらない常識に凝り固まって、自らを雁字搦めに縛り付ける鎖を生み出していた。頑丈に見えたその鎖は実はとても脆くて、自分にとって何が一番大切なのかを知ってみれば、さらさらと崩れて消えていく程度のものだった。
 何故、失いそうにならなければ気付けないんだろう。どれだけ犠牲にするものが大きくても、今までの自分の価値観や生き方を根底から覆してしまうものだとしても、それでも俺はこんなにも、このひとが恋しかったのに。





 ──紫蘭と喧嘩したのが土曜日。火曜日に、鈴果に似た女性を得体の知れない喫茶店まで道案内して。

 不注意だった。お酒を飲めない自分の体質はよくわかっていたのに、まさか日中に喫茶店でアルコールが出されるとは思わなくて、確かめもせずに飲んでしまった。
 さほど度数の高くないお酒なのだと、彼女は言った。あんな程度でぶっ倒れてしまうなんて信じられない、酔ったふりをしただけなんじゃないのかと。
 何を言われても、言い返すことはできなかった。意識も記憶もお酒に奪われていた俺に、どんな申し開きができただろう。神に誓って何も覚えていない。でも、何もしていないとは言えなかった。俺が目覚めた時の彼女の状態を見れば、それはとても言えることではなかった。

 住所とか、会社名とか、携帯の番号とか、名前とか。彼女に問われるままに答えた。もし俺が、本当に彼女に何かしたのなら、それは責任を取らなければならないとも思ったし、記憶にないという理由で逃げたり誤魔化したりしたら、自分が許せなくなりそうだった。
 でも、まだどこかで甘く考えていたことも事実。三ヶ月後に結婚すると決まっているのなら、彼女こそ何もなかったことにしたいのではないか。婚約者に知られて困るのは、彼女の方だろうから、と。

 ――そして、木曜日の今日。会社に入った一本の電話。

 彼にバレたの、と、何の前置きもなく彼女は告げた。婚約は破棄された、と。
 泣いているのか、怒りなのか、わからない。ただ、低く震える声が、彼女がひどく傷付いているのだと俺に思わせた。
 その後、何を話したのかははっきり覚えていない。激昂するでもなく、淡々と、あなたも幸せにはならないで、と彼女が言った言葉だけが、やけに鮮明に耳に残った。

 幸せにならないで。……それでは俺は、どうしたらいい? 頭の中がスウッと冷たくなっていく。だからって冷静になっているわけではなく、ただ呆然としていただけだ。一枚、二枚、薄い膜が張られたような、妙にぼやけた視界。ポタリ、と音がして、目の前の書類に水滴が落ちて弾けた。ああ、泣いてる場合じゃないのに。慌てて頬を拭い、俯いてトイレに立つ。
 陸雄が外回りしてて良かった。傍にいたら心配して、きっといろいろ訊いてくるだろう。今の俺は、それに答える言葉を持たない。
 洗面台で顔を洗って、ハンカチを出して、顔を拭いて。何も考えられないのに、考えなくても身体は動く。鏡で確認した目元がまだ赤かったけど、もうそこに涙はなかった。

 機械的に仕事をこなして、終業時間になって。帰る気にはなれなくて、と言って行く当てもないままに、街の中を歩いた。歩くだけしか機能を持たないロボットにでもなってしまったような気がする。いつの間にか雨が降り出していることにも気付かずに、ずぶ濡れで歩く俺に行き交う人々が向ける視線を気にする余裕もなく、足だけをひたすら動かしていた。
 頭の中では、彼女の言葉がぐるぐると回ってる。
 あなたも幸せにはならないで。
 幸せにはならないで。
 血の温みを感じさせない彼女の声で再生される、それはまるで何かの呪文のように。ああ、本当にあれは呪文だったのかもしれない。俺を幸せにさせないために、彼女がかけたお呪い。
 ぶるり、とひとつ身震いをしたと同時に、小さなくしゃみが出た。寒い、と、ようやく思った。
 無意識に、俺の足は、紫蘭のマンションへと向かっていた。



 初めて主のいない部屋に、初めて合鍵を使って入る。暗く静まり返った室内が、そこに逢いたくて堪らないひとはいないのだと、俺に思い知らせた。
 奥に進む気にはなれずに、広い玄関でうずくまる。俺はここに何をしに来たんだろうかと、一向に働かない頭で考えた。
 もし俺が、本当に彼女に無理やり何かをしたのだとすれば、それは紫蘭に対する裏切りだ。きっと悲しませてしまう。どんな顔をして逢えばいいのかもわからない。
 でも、それでも、どうしても今、紫蘭に逢いたい。逢ってどうするのかなんて考えてはいなかったけど、逢わずにはいられないくらいに、紫蘭の温もりを欲していた。


 薄暗い玄関で、どれくらい待ち続けただろう。
 カチリと解錠される音がして、俺はハッとして視線をそこに向けた。ドアが開く。一歩中に踏み込んだ体勢のままで固まる紫蘭の、ひどく驚いた顔を見ただけで、わけがわからなくなるほどに感情が昂って喉が詰まった。

 そして、やっとわかったんだ。自分が何をしに、ここへ来たのかが。




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あきゅろす。
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