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俺のヴァージンロード
17(紫蘭〜煉side)

 深い溜め息が漏れた。
 もう、私が男だということは知られてしまっている。それならば、もし今『煉』に逢いたいという由耶の願いを拒んだところで、結果にたいした違いはない。審判の時が、ただ少し先に延びるだけのことだ。
 足が竦むほど怖かったけど、覚悟を決めるしか道はなかった。

「――わかったわ、ユウヤさん」

 小さく頷くと、由耶がハッとしたように私を見上げた。

「でも、一緒にお風呂に入るのは無理。『紫蘭』から『煉』に戻るところは、見られたくないの」
「……そっか。ていうか、そんなに別人になるの?」
「そうね。たぶん、知らない人は気付かないくらいには変わるかも」

 少し迷いを残した表情で、それでも由耶は力強く頷いた。

「うん。……大丈夫、だから」

 大丈夫。何が、と由耶は言わなかったけど。私も訊かなかったけど、でも。
 そう、きっと、大丈夫。
 由耶のくれた言葉を、自分に言い聞かせるように心の中で繰り返す。

「じゃ、先にお風呂どうぞ」

 由耶を残して脱衣場を出て。私は初めて彼の前で『煉』に戻る準備を始めた。心の、準備を。



 ホカホカ温まって、まだ髪を濡らしたままの由耶がリビングに戻ってくる。入れ違いに浴室に向かう私を、じっと見送る由耶の視線を背中で感じて、着替えを抱えた腕が震えそうになった。
 思えば、由耶がいるときに入浴するのも初めてだ。紫蘭になるために髪を巻いたり化粧をしたりするのには、結構な時間がかかる。せっかく由耶と過ごせる大切な時間を、そんなことで無駄にしたくなくて、いつもお風呂を済ませてから由耶を迎えていたから。それに、何かのアクシデントがあって、煉に戻った自分を由耶に見られてしまうのを恐れていたというのも理由の一つだ。

 陸雄が由耶にどういう話をしたのか、陸雄の性格を考えればある程度は予測がつく。私と何度か寝たことのある陸雄は、煉に戻った私も知っている。もしかしたら、どちらの私も一番良く理解しているのは陸雄かもしれない。ありのまま、余計な脚色も誤魔化しもなく、自分の知る真実のみを由耶に話しているだろう。その上で、『煉』に逢うことを由耶が望んだのだから、希望がないわけではないと思う。いや、思いたい。
 自らを鼓舞するように、大きく一つ息を吐き出して、私は優雅なデザインのドレスのジッパーを勢い良く引き下ろした。





 頭から熱いシャワーを浴びると、綺麗に巻かれていた髪は瞬く間に真っ直ぐになった。シャープな頬のラインを和らげていたカールがなくなると、それだけでもガラリと印象は変わる。顔を洗って化粧が落ちれば、もうここにいるのは『煉』だ。中性的な造りではあるけれど、女には見えない。紫蘭の面影を残してはいても、どう見ても男の自分。
 浴室の鏡に映るのは、二十数年間見慣れた顔。なのに、今夜はやけによそよそしく見える『煉』の顔。造作は整っている方だとは思うけど、由耶にとって大事なのはそんなことじゃない。男か、女か。たとえ見た目だけのことであっても、それがヘテロにとってどれだけ重要なことか、俺は身をもって知っている。
 紫蘭を抱きたいと言った由耶は、きっとわかっていないだろう。柔らかな胸も豊かな腰もない男の躰の手触りが、どれだけ女と違うのか。紫蘭でいるときの俺を好きだと、それだけで乗り越えられるほど簡単なことじゃない。愛情があれば全て受け入れられるというのは、そうでありたいと願いつつもそうはなれない人間の、永遠に叶うことない哀しい願望だ。現実には、愛情があってもどうにもならないことなんて、嫌になるくらいにたくさんある。男同士、おまけに片方がノンケとくれば、尚更に。
 おそらく、今日、俺は由耶を失うだろう。心が凍りつきそうなそんな予感に、身体を洗う手が幾度も止まった。打ち消しても、打ち消しても、何通りもの別れの場面が、由耶の台詞が、まるで鮮やかな予知夢のように頭をよぎる。

 いつもの倍くらいの時間をかけて風呂を済ませて、脱衣場で男物の下着を身に着けた。待ち切れないで由耶が眠っていてくれればいいなどと埒もないことを考えつつ、これも男物のシャツを羽織り、ジーパンを穿いた。
 リビングに通じるドアを開けるのを、こんなに躊躇ったことはない。『紫蘭』でない素顔の自分を、これほど心許なく感じたことも。
 馬鹿みたいだとは思いながら、どうしてもドアを開く勇気がなくて、控えめなノックをした。すぐにパタパタとスリッパが床を走る音がして、ドアを隔てて止まった。
 嵌め込まれた磨りガラスに、朧気に由耶の姿が透けている。由耶のほうからも俺の輪郭がぼんやりと見えていることだろう。緊張を孕んだ沈黙が重い。ほんの数秒ほどのことなのに、それは長く数十分にも感じられた。
 やがて、おずおずとガラスの中の由耶が動いて、ドアノブがガチャリと音を立てた。ゆっくり、じれったいくらいにゆっくり、ドアが向こう側に開いていく。半分くらい開けたところで、由耶が伏せていた顔を上げた。
 視線が、絡まる。一瞬大きく見開かれた由耶の目が、徐々に慣れ親しんだ笑みを滲ませるのを、俺は呼吸すら止めて見つめていた。

「……煉?」

 柔らかい声音で呼ばれて、胸の奥から何かが突き上げてくる。どうしたらいいのか、わからない。返事をしようにも、得体の知れない熱に喉を塞がれて、声もまともに出せそうにない。頷くことで答えると、由耶は半分泣いているような顔で笑ってみせた。

「あは。やっぱり、カッコイイや」

 由耶の手がすっと差し出されて、俺の髪に触れた。くるくると指に巻きつけて、放す。そんな手遊びじみた動作を幾度か繰り返して、それでも視線は俺に縫い止めたまま。

「うん、でも、確かに紫蘭さんとは別人みたい。似てるけど……っていうか、似てて当たり前なんだけど、弟かお兄さんって感じだね」

 明確な拒絶の色が見えない、由耶の口調。でも、微かに震える語尾が、隠し切れない由耶の動揺を俺に伝える。当然だ、と思う。俺だってもし由耶が急に女になったら、すぐにそれを受け入れられる自信はない。だから、たとえ由耶が『煉』を拒んだとしても、決して責めるまいと決めていた。そう、由耶のもうひとつのお願いが、別れよう、というものであっても。

 一向に口を開かない俺を訝るように見上げて、由耶が小さく首を傾げた。煉、と優しい声がじわりと胸に染み入って、僅かばかりの勇気を俺の中に生み出した。ほとんど無意識に腕を伸ばす。俺の髪に触れていた由耶の指を、掌ごと掴んで引き寄せる。抵抗なく俺の腕の中に納まった由耶の身体を、遠慮がちに抱き締めた。首筋を掠める由耶の吐息が愛おしくて、あまりにも愛おしくて、泣いてしまいそうだった。





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あきゅろす。
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