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俺のヴァージンロード
16(紫蘭side)

 いつも通り、深夜一時を過ぎてから店を出た。
 外は、雨だ。夕方には降っていなかったのに、と心の中で零して、濡れてネオンを反射するアスファルトの上を早足で進む。幸い小雨だったから、さほど冷たい思いをすることもなく、運転代行サービスのおじさんが待つ駐車場に着いた。

 平日は仕事のある由耶と、あまり逢うことができない。独りでマンションに暮らし始めた以外は、取り立てて以前と変わりない日常。それでも、週末には由耶に逢えることが、私には大きな喜びになっている。
 今日は木曜日だから、明日には逢えるかな。そう思っただけでじわりと滲む幸せを噛み締めながら、自分の車の後部座席に身体を滑り込ませた。

 天気の話や、店の客の愚痴なんかを、ポツリ、ポツリと話す。このおじさんとはサービスを頼み始めた頃からの、もうずいぶんと長い付き合いだ。相槌を打ち、時折控えめに言葉を挟みながら、いつも大して変わり映えしない私の話を聞いてくれる。

「今日は何かいいことがおありでしたか、柴崎様」

 おじさんが、バックミラー越しに私を見て、微笑んでいるとわかる口調で話しかけた。

「今日じゃなくて、明日ね。恋人に逢えるかもしれない日だから」
「ああ、それでとても幸福そうなお顔をなさっているのですね」
「そんなにわかるほど表情が違う?」
「ええ、それはもう、ひと目でわかりますほどに」

 何だか恥ずかしくなってしまう。ひと目で見抜かれてしまうほど浮かれていたなんて、どれだけ由耶に夢中なんだろう。――そう。本当に、夢中。私の何もかもが、今は由耶中心に動いている。

「どうか楽しいお時間をお過ごしになられますように。……到着いたしました」

 マンションの駐車場へと車を入れて、おじさんは後部座席のドアを恭しく開けてくれた。おじさんのエールを受けて、私は少し照れながら車を降りた。



 部屋に着くまでの間に、朱里ママに電話を入れた。明日と明後日は休むからね、と一方的に宣告すると、何か喚いてるママの声をキレイさっぱり無視して電話を切った。お店で直接言うと、グダグダとうるさく言われるのが面倒くさい。電話だと勝手に切ってしまえるから都合がいい。
 由耶の都合を聞いてないけど、たぶん金曜日は会社帰りにここに来てくれるはず。明日のお昼にでも「待ってる」メールをすれば、何時には来られるかの返事をくれるだろう。ウキウキとそんな予定を考えてたら、切ったばかりの携帯が着信を知らせる音を奏でた。
 由耶じゃない。由耶だけは彼の好きな曲を着メロに設定してるから、他の誰かとはすぐに区別がつく。
 ……ママだ。ディスプレイに表示されてる名前を見て、私は容赦なく携帯の電源を一旦落とした。すぐにまた電源を入れて、大急ぎでママのケー番を着信拒否に設定した。ママのお小言に付き合ってる暇はないし。明日の由耶のご飯の、下拵えだけでも今夜中にしておきたいんだから。
 ママからの電話をシャットアウトして一安心。どんな食材が冷蔵庫に入ってたかを思い浮かべながら開錠して部屋のドアを開けて――


「……!? え? ええっ!? ユウヤさん、どうして?」


 ドアを開けてすぐ、リビングへと続く廊下に、何故だか由耶が座り込んでいて。
 逢いたい気持ちが強すぎたせいで見えた幻覚か、と目を擦る私に、まるで泣いているような笑顔を見せた。




 何かあったんだろうとは思ったけど、それよりも由耶のスーツがぐっしょり濡れていることの方が気懸かりで、私は慌てて彼の服を脱がせてバスローブを着せ、お風呂の用意をし、それはもう大忙しに立ち働いた。
 いくら梅雨の時季とはいっても、深夜にびしょ濡れの服のままでいた由耶の身体は冷え切っている。

「傘、持ってなかったの? そんなに降ってた? タクシーで来てくれれば良かったのに!」
「うん、ごめんね、急に来ちゃって……」
「ユウヤさんが来てくれるならいつだって大歓迎だけど、こんなに濡れたら風邪引いちゃうじゃない」
「ごめん……、逢いたくて。どうしても逢いたくて、それで」

 しがみ付いてくる由耶の身体が小刻みに震えている。それを、寒さのせいと判断した私は、彼の肩を抱きかかえるようにして浴室まで連れて行った。

「ゆっくり温まってね。着替え、出して置いておくから」

 そう言って脱衣場を出ようとした私の腕を、由耶が掴んで引き留めた。

「……ユウヤさん? どうしたの?」
「あの、あのさ」

 必死な顔で、目にはうっすらと涙まで浮かべて。そこで私はようやく気付く。由耶が、嘗て見たこともないほどに、追い詰められた表情をしていることに。

「なあに?」

 由耶がどうしてそんな顔をしてるのかはわからなかったけど、安心させるように、出来る限り穏やかに続きを促した。

「お願いが、あって、俺……」
「お願い? 私に出来ること?」

 縋るような目を真っ直ぐ見返して訊くと、由耶はひとつ大きく頷いた。

「紫蘭さん、お願い。一緒に、お風呂入ろ?」
「それは、……出来ないわ。ごめんなさい」

 今までも何度か、由耶はそう私を誘ってきた。でも、男の身体で、顔を洗えば完全に『紫蘭』でなくなってしまう私を、何も知らない由耶に見せるわけにはいかない。だから今日も、申し訳なさを感じながらもきっぱり断る私に、由耶は思いがけない言葉を継いだ。

「お願い。俺……『煉』に、逢いたいんだ」


 ヒュッと息を吸い込んだまま、一瞬呼吸が止まった。氷を押し当てられたような冷たさが、背筋を走り抜ける。

「今、何て……?」

 塞がる喉を振り絞ってやっと出した声は、ひどく低く掠れていた。

 煉、と由耶が言った。
 それが私の本名だということは、由耶は知っているけど、でも。

 『煉』に、逢いたい。それはつまり、私がずっと言い出せなかったことを、由耶には知られていたということ。

「煉に逢わせて、紫蘭さん。それが、俺の一つ目のお願い」

 一つ目ってことは、二つ目もあるんだろうか。何を言われるのかと、足元から怖れが這い登る。

「知ってた、のね?」
「うん。陸雄に聞いた。――黙ってて、ごめん」
「どこまで聞いたの?」
「紫蘭さんが、本当は男だって。それが戸籍の上だけのことじゃないって、聞いたよ」
「いつ?」
「十日くらい前」

 ああ、だからか。それを聞いて、思い出すことがある。
 『紫蘭さんを、抱きたいんだ』と、そう言った日の由耶。何かを悩んでいるような、思い詰めたような、そんな顔をしていた。あれは、私が男だと知ったせいだったのか。
 陸雄のことだから、私がネコはできないってこともたぶん話しているだろう。ノンケの由耶にとって、たとえ相手が私でも、男に抱かれるということは受け入れ難いものがあって……だから、普段の由耶ならまず言えないようなあんなことを口にしたんだ。

「それで、ユウヤさんは、『煉』に逢って、どうしたいの? 二つ目のお願いは、何?」

 平然としたふうを装いながら、そう尋ねる声が震えた。由耶は私と付き合い続けられるのかどうかを、煉に逢ってからきめるつもりなのだろうか。それとも、二つ目のお願いとは、男とは恋なんか出来ないから別れたいと、そういうのだろうか。
 怖かった。由耶が離れていってしまうことが怖くて、だから何も言えないで、結果として由耶を騙しているような形になってしまったけど、その罪悪感なんか霞んで消えてしまうほどに、由耶を失うことだけが、ただ怖かった。

「二つ目は、煉に逢ってから、煉に言いたいんだ。だからまずは、紫蘭さん、一緒にお風呂入って、煉に戻ってほしい」

 お願い、と可愛らしく言いながらも、由耶は何が何でも退かない構えを見せている。
 どうしよう。本当に、怖い。
 何も答えられないで立ち竦む私の背中に、由耶がそっと腕を回した。


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あきゅろす。
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