俺のヴァージンロード
15
身体が冷たい。手も足も冷え切って、まるで氷みたいだ。
どうしてこんなに寒いのかと不思議に思って、気が付いた。俺は今、水の底にいる。
遥か頭上を見上げれば、遠くに陽の光が見えた。あそこまでいけば、きっと暖かいだろう。太陽の温もりが恋しくて、それに触れたい欲求が堪えきれないくらいに膨れ上がる。
俺は、身体に纏わり付く重い水を掻き分けて、ゆっくりと水面を目指した。
水中にいるのに不思議と呼吸は苦しくない。だからこれは夢なんだと、心のどこかで冷静に分析して、それでも水を掻く手は止められなかった。
少しずつ、少しずつ明るさが増す。光に近付くにつれて、凍え切っていた身体にも微かに体温が戻る。
もうちょっとで、光に手が届く。泳ぐ腕に力を籠めて、確実に浮上していく俺の足を、そのとき何かが掴んだ。
がくん、と失速した俺は、恐怖に囚われて自分の足を引く何かを見下ろした。
……淡い、金髪。色白で彫りの深い顔。憎しみに歪んだ色素の薄い瞳が俺を睨み付けるように見上げてる。
――誰? 何故、俺の邪魔をするんだろう。俺はただ、寒くて堪らないだけなのに。暖かい光に包まれたいだけなのに。
ズキン、と頭の芯が痛んだ。鼓動に合わせて、ズキン、ズキンと疼く痛みが、徐々に俺を水底へ連れ戻す。渦巻く真っ黒な闇の中に、金髪の男と共に堕ちていく。
呑まれる……! そう思った瞬間、俺はゆっくりと夢から覚めていった。
誰かのすすり泣く声が聞こえた。まだ夢の続きを見てるのかと、薄く瞳を開く。
最初に視界に入ったのは、見覚えのない天井だった。自分の部屋とも、紫蘭のマンションとも違う、濃いベージュの滑らかな天井。
背中が痛かった。俺は何故だか硬い床の上に、直接横たわってるらしい。何度か瞬きをすると、少しずつぼやけてた視界が鮮明になっていく。
すすり泣く声はまだ聞こえてる。俺のすぐ近くで、高くなり低くなり、すごく哀しそうに誰かが泣いてる。何で泣いてるんだろう。誰が泣いてるんだろう。動くのが億劫で、頭だけを働かせる。何かがチクリと引っかかったような気がしたけど、それははっきりとした形にはならず。
頭の芯が鈍くて重い。そういえば、身体もだるい気がした。こんな硬いところで寝てしまったからかと考えて、俺は眉を寄せる。いつの間に寝たんだ? そんな記憶は、どこにもなかった。
まだ意識が覚醒しきっていないのか。眠った覚えもなく、なのに目覚めればどこともわからない場所にいるという不自然な状況に、気持ちが付いていけない。それでも泣いてる誰かがさすがに気にはなって、俺はゆっくりと声の聞こえる方向に頭を向けた。
「……!?」
思った通り、俺はフローリングの床の上で直に寝ていた。さほど広くはない部屋。その全景を見て取る前に、無秩序に床に散らばる小さなボタンに目を奪われた。まるで無理やり引き千切ったかのように、糸がついたままのものもあるそのグレーのボタンにざわりと胸が嫌な感じにざわめいた。
部屋は思ったほど明るくはない。夜なのかもしれない。頭上にぶら下がる洒落たライトから、ぼんやりと黄色味を帯びた光が室内を照らしてる。それは暖かい色なのに、妙にうすら寒く感じられた。
視線を先に向ける。何か白いものが、いくつも落ちてる。目を凝らしてみて、それが丸められたティッシュだと気付いた。そして、その向こうに。
泣き続けるひとの姿を見て、俺の頭は一瞬真っ白になった。
白く光を弾く肩から、零れ落ちるブラウンの長い髪。前が開いて二の腕が露わになるまでずれ落ちたブラウスを、掻き合わせるようにして胸元で握り締めた女性。
俺の視線を感じたのか、その女性がゆっくりと顔を上げた。
涙で頬が濡れて、化粧も剥げ落ちてしまってはいたけど、彼女には見覚えがあった。怪しげな喫茶店まで道案内をして、一緒に得体の知れないドリンクを飲んだ女性だ。
同時に思い出す。夢で俺を海の底に引きずり込んだのは、あの喫茶店のオーナーだ。
一気にいろいろなことが脳裏に蘇ってきたけど、その記憶は全て、オーナーオススメのドリンクとやらを飲んだところで、まるでハサミにでも切り取られたかのように、ふっつりと途切れていた。たったひとつ、そんなことになってる原因として思い当たるのは。
「……お酒?」
あのドリンク。
早く帰りたくて、早く紫蘭の声を聞きたくて、味も確かめずに一気飲みした。アルコールは苦手だってオーナーには言っておいたし、喫茶店ではソフトドリンクしか出されないと思ってたから、まさか酒だとは思わなかった。
でも、この記憶の途切れ方は、無理して呑んだときと同じだ。鈍く頭の奥が痛む感じにも覚えがある。
「ひどい」
ぐるぐる回る思考が、底冷えのする声に遮られた。憎しみを籠めた目に正面から射抜かれて、そんな目で見られる理由もわからず、俺は戸惑って彼女を見返す。
「あ、の……」
「こんなことするひとだなんて、思わなかった」
恨みがましく言われた言葉に一層困惑した。
こんなこと? 俺、何かしたっけ? 大抵は酒を呑むとぶっ倒れてしまって、死んだように眠り込んでしまう。だから、何かできるほど動けるはずもないんだけど。
もしかして、すごい迷惑かけたんだろうか。喫茶店からここ、たぶん彼女の部屋みたいだけど、運んでくれたりとか、女性の力じゃそれは大変だっただろうし。
ボタンが床に飛び散っていて、丸めたティッシュが散らばっていて、その向こうに肌蹴たブラウスを掻き合わせて泣く女性がいる。そういう状況ではあっても、まさか自分が彼女に何かしたなんて思いもよらず、俺はごく普通にお礼を言って謝った。
「あの、俺、酔っ払って倒れちゃった? 運んでくれるの、重かったでしょ。ありがとう……ていうか、ごめんね」
途端に彼女がキリキリと眦を吊り上げた。
「何言ってるのよっ! 馬鹿にしてるの!?」
「え?」
「それとも、覚えてない振りしてなかったことにしようとでも思ってるの!? 冗談じゃないわよ、あなた、私をレイプしたのよ!?」
そこまで言われてもまだその意味が呑み込めない俺は、本当に馬鹿かもしれない。ただ、背中を這い登る嫌な感覚に、何か良くないことが起ころうとしているのをぼんやりと予感した。
三ヵ月後には結婚式を控えているのだと、彼女が言った。身体中に残る青痣やキスマークを、ひとつひとつ俺が付けたのだと見せ付けながら。
フィアンセにもし知られたら破談になってしまう、そうしたら私はあなたを絶対許さないし幸せにもさせない、責任はしっかりとってもらう。そうヒステリックに叫ぶ彼女を、俺はただ呆然として見ていた。
悪い冗談かと思った。冗談であってほしいと思った。泣きながら俺を責める彼女が言うことは、本当に何一つ記憶にはなくて。
酔ったら人間が変わる人もいるとは知ってるけど、女性を暴力で以て思い通りにするなんて、自分がそんなことするなんて、信じられるわけがない。そんな欲望を今までただの一度も抱いたことがない俺が、いくら酔っていたとはいっても、あり得ない話だ。
『鈴果』の名前が彼女の口から出るまでは、絶対に何かの間違いだと、まだどこかで逃げ道があることを信じてた。
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