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俺のヴァージンロード


 平日は仕事時間がすれ違うこともあって、紫蘭には逢えないまま数日が過ぎた。考える時間はたっぷりあったけど、恋愛経験豊富とはいえない俺にとって、抱えた悩みはあまりにも難問だった。結局、何一つ解決策も見出せないで、ただ時間だけが流れていく。


 明日は土曜日。
 お店を休んだから、と、紫蘭から誘いのメールがきて、俺は退社後、直接紫蘭のマンションに足を向けた。

 いつもなら、もっとウキウキ浮かれて通る道。今日の足取りは、かなり重い。
 逢いたくないわけじゃない。紫蘭に逢えることは、すごく嬉しい。でも、どんな態度をとればいいのかがわからなくて、俺は思い煩いながらゆっくりと歩く。

 紫蘭がどうしても言い出せないでいることを、陸雄から聞いてしまった罪悪感。そして、その事実を俺が知ってるのを、紫蘭には隠さなければならないと思えば、尚更に気が重くなる。
 自慢じゃないけど、隠し事をするのは、ものすごく苦手だ。絶対、挙動不審になる。勘の鋭い紫蘭に、間違いなく怪しまれる。
 だからって、逢わずにいることなんて、我慢できるはずないし。

 道端に山ほど溜め息を落としながら、カタツムリにも負けそうな遅さで、それでもとうとう紫蘭の部屋の前に着いてしまった。この一週間で、三年分くらいの溜め息をついた気がする。溜め息をつくと頭に酸素が回るから脳の回転が良くなるなんて、以前何かで読んだけど、あんなのきっと嘘だ。どう紫蘭に接したらいいのか、それすらも判断できないんだから。
 ドアの前でいくら悩んでても仕方がない。他の住人に見られたら、不審者扱いされてしまいそうだ。とにかく、隠し通すこと。それが無理なら、今の気持ちをちゃんと伝えること。それだけを心に決めて、俺は緊張しながらドアチャイムを鳴らした。





 いつものように、熱烈な歓迎を受けて、半ば紫蘭に抱きかかえられるように、広いリビングに通された。
 巨大な猫に甘えまくられてるみたい。今にもゴロゴロと喉を鳴らさんばかりの紫蘭はすごく幸せそうで、本当に俺なんかのことを想ってくれてるんだって実感する。

「ユウヤさん、お腹空いてる?」

 テーブルに並ぶ見事な手料理も、紫蘭の愛情表現だ。風呂の浴槽もピカピカに磨き上げて、広い部屋中を隈なく掃除して、そうして俺を待っててくれる。
 なのに、俺ときたら。

 紫蘭が男だという、本人にもどうしようもないことで、気持ちは変わらないと言いながらも抱かれるのは嫌だなんて勝手なことを思ってる。こんなに一生懸命、紫蘭は大切にしてくれてるのに。
 自分が情けなくて、切なくなってしまう。

「……ゴメン、紫蘭さん」

 急に謝られても、紫蘭には意味がわからないだろう。それでも口にせずにはいられなかった謝罪の言葉に、紫蘭がきょとんとして小首を傾げた。

「なあに? どうして謝るの?」
「ん……、何となく、かな?」

 理由を言えるわけがなくて、適当に誤魔化す俺に、紫蘭が少し心配そうな顔をした。

「どうかした? ユウヤさん、悲しそうに見えるんだけど」
「そんなことない。紫蘭さんと一緒にいられて、嬉しいよ」

 そう思ってるのに嘘はない。でも、どこか空々しく聞こえはしなかったかと不安になって、紫蘭の表情を窺った。
 まだ案じているような目で俺を覗き込んで、きっと何かに勘付いてはいるんだろうけど、紫蘭は何も気付かないふりで笑ってくれた。

「ご飯、食べるでしょ? ユウヤさんの好きな和食にしたわよ」
「うん、お腹空いちゃった」

 本当はあまり食欲もなかったけど、これ以上よけいな心配をかけたくなくて、俺は大袈裟にお腹をさすって食卓に着いた。



 食欲がなくても、紫蘭の料理はすごく美味しい。残すのなんて勿体ない。出されたものを全部平らげて、ご馳走様でした、と両手を合わせる頃には、俺は立ち上がることも億劫なほどお腹一杯になってた。
 紫蘭が嬉しそうに空になった食器を片付け始める。手伝おうとした俺を、やんわりと持ち上げた掌で止めた。

「いいから、ソファにでも座っててね。苦しいでしょ?」
「うん、ありがと。あんまり美味しいから、食べ過ぎちゃったよ」
「ふふ、ユウヤさんにそう言ってもらえるのが一番嬉しいわ」

 ゆっくりソファに移動して、テキパキと動く紫蘭をじっと見つめる。気が付くと、豊かに膨らんだ胸にばかり視線が向いてて、俺は慌ててテレビのリモコンを手に取った。
 紫蘭が男でも構わない。その気持ちに偽りはない。でも、心のどこかで、あのバストが本物じゃないことを残念に思ってる自分もいて、何だか少し自己嫌悪。別に巨乳好きなわけじゃないんだけど、あの胸に顔を埋めたい、なんて願望もあったから。
 そういえば、俺はまだ紫蘭のスッピンを見たことがない。部屋に俺が訪ねるときには、紫蘭は既に入浴済みで、きちんと化粧して出迎えてくれるから、素顔を見る機会がなかった。メイクのことは良くわからないけど、そんなに厚化粧してるようには見えない。スッピンになってもそれほど落差はないんじゃないかと思う。
 普段は男の格好してる、と陸雄は言ったけど、想像してみてもマニッシュなスーツ姿の紫蘭しか浮かばない。自分の想像力の貧困さに苦笑した時、片付けを終えた紫蘭が俺の隣に腰掛けた。

「あ、紫蘭さん、何も手伝わないで、ごめん」
「ユウヤさんは美味しそうに食べてくれれば、それだけでいいの。気を遣わないで?」

 柔らかく微笑んで、俺の頬に掌を添える。優しく見つめる深い色の瞳が、幸せそうに細められた。
 何故だろう。わけもわからず、胸が苦しくて泣きたくなる。
 紫蘭が俺以上に悩んでる、と言った陸雄の声が、耳に蘇る。
 切なくて、潤む目を見られたくなくて、紫蘭の背中に腕を回した。

 紫蘭が、本当に女だったら良かったのに、と、そんなふうに思ってしまってる自分の身勝手さに、重苦しい嫌悪感が込み上げる。でも、打ち消しても打ち消しても消し去ることのできないその思いは、きっと俺の本心なんだろう。
 そんな俺の気持ちを知っても、紫蘭は俺の傍にいてくれるだろうか。

 泣きたいのを堪えて小刻みに震える俺の躰を、慰めるように紫蘭がぎゅっと抱き締めた。

「ユウヤさん、ひとりで悩んじゃダメ」

 穏やかな声に、胸が締め付けられる心地がして、俺はきつく目を閉じた。
 抱き締め返すと、確かに女性とは違う、固い感触がある。今まではあまり気にしていなかったその抱き心地が、今日の俺には哀しくて仕方がない。

 まだ、男だから嫌だと思えた方が良かった。はっきりできずに、今のままの関係が続いていくのは、きっと紫蘭にもつらいに違いない。でも、本当は男だと、紫蘭の口から打ち明けられるのも怖い。俺は、それにどう答えればいいんだろう。
 別れたくなんかないのに、どうしても抱かれる気持ちにはなれない。いつまでもプラトニックに想い合うだけでは、いずれ紫蘭に捨てられてしまうんじゃないかと、それもまたすごく不安で。

 ぐるぐると埒もない思いが頭の中を回る。ひとつだけ、俺が考え得る打開策は、陸雄から期待しない方がいいって言われちゃったし。

 ……だけど。
 それしか、方法がないのなら。そして、紫蘭が本当に俺を想ってくれてるのなら、もしかしたら、紫蘭も折れてはくれないだろうか。ずっと一緒にいたいって、紫蘭も同じくらい強く、そう願ってくれてるのなら。

 無理かもしれない。お互いに気まずい思いをするかもしれないと、マイナス方向へ考えてしまいそうになって、それなら最初から期待しないで、とにかく言うだけは言ってみようと、頭を前向きに切り替える。往生際が悪いけど、他にどうしようもないと思うと、一縷の望みに縋り付きたい気持ちが勝った。
 おずおずと顔を上げて、紫蘭の表情を窺った。軽く首を傾げて、気遣わしげに俺の顔を覗き込む。

「紫蘭さん、あの……」
「ん? どうしたの?」

 俺が話しかけたことで少し安堵したのか、漆黒の瞳が優しく細められた。

「あの、俺、さ……」

 どう伝えればいいのかわからずに口籠もる俺を見つめて、先を促すようにゆっくりと背中を撫でる。その掌の温かさに後押しされて、俺は思い切って言葉を継いだ。

「俺――紫蘭さんを、抱きたいんだ」





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あきゅろす。
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