ショートコント3
放漫な魔法2
*
「あついね」と私より五分遅れてやってきた相田しおりは言った。薄手のサマーニット・カーディガンを脱ぎながら。カーディガンのしたは、肩紐の細い麻のワンピースだった。青白い肩。細い腕。想像せずにはいられない。矢野さんがその肩にそっとキスをするところを。その腕が、彼の引き締まったからだにするり、と巻きつくところを。それらがつぎからつぎへと生々しくイメージされていき、私はほとんどぞっとした。
「なにかたのんだ?」
「いや、まだです」
「じゃあ先たのんじゃおう。決まった? ここの紅茶はすっごくうまいよ」
「……。」
相田しおりは片腕をためらうことなくまっすぐにあげ、ウエイターを呼んだ。とても綺麗な脇だった。
「わたしは今日のおすすめのホット・ティーと、斉藤さんは?」
「……日替わりケーキと、エスプレッソ」
ぜったい紅茶なんて飲むものか。
「あ、いいねケーキ。わたしもおなじのひとつ」
かしこまりました、とウエイターは頭をさげ、それから「妹さんか、と思いました」と微笑んだ。顔なじみらしい(私はますます機嫌を損ねた)。
「ちがうよ、働いてたとこのね、元後輩。高校生だよ、かわいらしいでしょ」と溌剌とした笑顔で言った彼女に、私はすでに戦意喪失気味だった。
*
「で、話ってなあに」ケーキをさもおいしそうにつつく相田しおりは、どの角度から眺めたって三十路ちかい子持ち主婦にはみえない。
「矢野さんのことです」
「うん?」
まったくなんの話かわからない、といった顔で彼女は首をかしげた。
「どういうつもりなんですか?」思いのほか低い声になる。
「遊びなんでしょう? 矢野さんのこと、たいして好きでもないくせに」
相田しおりは黒い瞳をまるくした。驚きのあまり口も訊けないと言わんばかりに、しばらく私の顔をまばたきすらせずに凝視していたけれど、たは、と言って――ほんとうに「たは」と言ったのだ――相好を崩した。
「わたしは本気だよ、いつでも」
「不倫ですよね」たは、ってなんだよ。
「不倫、と言われてしまえば、そう認めざるをえないわけだが」
「どうせ旦那さんと別れる気概もつもりもないんでしょう?」なんだその喋り方は。
相田しおりは困った顔ひとつしなかった。
「いいえ」ときっぱり言い放った彼女に、困惑したのは私のほうだった。はなはだ信じられなかった。
「どうして……」
どうして、不倫なんかするんですか。
どうして、ひとりのひとを大切にできないんですか。
どうして、そんなひどいことができるんですか。
どうして……矢野さんなんですか。
「……。」私は口をつぐんだ。不覚。不覚だ。どう考えたって正当なのは私のほうなのに、なぜ不粋なことをしているような気分にならなくてはいけないのだろう。視線をテーブルのした、膝に置かれた自分の手にやる。日に焼けた、こどもの腕。圧倒的に惨めたらしかった。
相田しおりも黙っている。私のことばの先を待っているのかもしれない。フォークとケーキ皿が触れ合うかちかち、という音がやけに耳についた。
しばしのあいだ、深海の底から這いあがってきたようにつめたい沈黙がながれた。
「矢野くんはね、」漫然と聞いていたかちかち、はいつのまにか止んでいた。顔をあげると、すごくやさしい微笑みの相田しおりと目が合った。
「矢野くんはね、天使なんだよね、わたしの」
私は睨みつけた。かまわず彼女はつづける。
「いや、悪魔かもしれないね。魂の取引をするのって、悪魔だものね。つまりそういうことだよね」
「いみわかんないです」
「売ってもいい、と思ったの、彼を手に入れるためなら」
「この、魂をね」相田しおりは自分の胸にてのひらを置いた。
「ほんの一時だったとしても、矢野くんがほしかった。そのあとえんえん暗黒的な不幸がつづいたとしても、ささやかな幸せを手に入れたかった。もしこれが旦那にばれて、離婚を言い渡されて息子を取り上げられたとしても後悔しないし、逆にこの先一生旦那に軟禁まがいの束縛をされたとしても反省しないね。どんな不幸だって受け入れられる。これは“天使に手をだした罰だ”、ってね。自分でもクレイジーだ、って思うけど」
脳裏に矢野さんの爽やかとしか言いようのない笑顔がよぎる。心臓が豆粒ほどのサイズに縮小されるかのような、痛みが走った。
そんなの、と私は思った。
矢野さんが天使? そんなの当然じゃないか。
→つづく
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