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ショートコント3
大気遠く、音聴いた



 バイト先である飲食店のちかくに可愛いカフェを見つけたので、意を決して私はバイト先の先輩・矢野さんを誘った。はじめては断然好きなひとと行きたかった。
 甘いものに目がない矢野さんはご機嫌だ。ケーキをつついていたかと思えば、とつぜん歌なんかうたいだした。

「そんなのよくしってますね?」
「なに?」
「その歌」私もうたってみせる。
「ああ、これ」
「教育テレビでやってるやつですよ、それ」
「そうなんだ?」

 矢野さんが口ずさんでいたのは、NHK教育テレビの子供番組で流れている回文の歌だ。ドレミレド、レミファミレ、の音階にあわせて回文をいくつかつづけただけの歌。弟がまだちいさいので、我が家では毎朝夕ずっと教育テレビがついている。

「もりまりもー」と矢野さんは陽気にうたった。

 もりまりも?

「もりまりも、ってなんですか?」と訊くと、あまり愉快でない回答がかえってきた。

「しおりさんがこないだ教えてくれたんだ。とある森の奥にすごく水の綺麗な湖があってさ、そこに棲むマリモたちを『森マリモ』って呼ぶらしいよ」
「……。」

 私は露骨にいやな顔をしてみせたけれど、矢野さんは鈍感が服を着て歩いているようなひとなので、まったく気づかない。
「回文っておもしろいですよね」しかたがないので会話を続行する。

「俺あんまり得意じゃないな」
「留守を隙にキスをする、とか」
「え?」
「るす、を、すき、に、きす、を、する」
「斉藤さんすげー」

 こんな駄文に心底感心してしまったのか、矢野さんは小学生みたいに何度も「すげー」を連発した。もう、と私は思う。背が高くて大人っぽくて爽やかでやさしくて、そのうえ少年のあどけなさまで持ち合わせているなんて、反則もいいところだ。「惚れてまうやろー」と言いたい(もうすでに惚れているのだが)。

「そろそろ出ようか」、いまからバイトなんだ、と矢野さんは立ち上がった。多少後ろ髪が引かれる思いであるがしかたがない、私もそれにつづく。
 歩きながらジーンズの後ろポケットから財布をだす矢野さんを見て、ふ、とこんなときあのろくでもない人妻ならきっと彼にお金を使わせたりしないのだろうな、なんて考えがよぎった。するとたちまち面白くなくなってしまい、店員さんに「お会計はご一緒ですか」と訊かれるよりも早く私は「割り勘で!」と叫んだ。割り勘で。もちろん割り勘で。先輩は苦笑していた。

「また一緒に来てくれますか」とカチコチたずねると、「つぎは奢られてくれるなら」といたずらっぽくかえされ、再び私はもう、と思わなくてはいけないのだった。惚れてまうやろー、と。

 少年の顔をして笑う罪作りな先輩に見とれながら、このひとはいつ私のおもいに気がつくのだろう、となんだか遠い気持ちになった。




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