ショートコント3
ナイト・プール・サイド
「そろそろ帰らなきゃ」と俺の腕から小慣れた動作でするり、と抜けたしおりさんがそんなことを言うので、いかせない、と俺は服を着始めた彼女の腰に抱きついた。
「はなして」とこらえ笑いの声でしおりさん。
「はなさない」ふざけながらも案外本気の俺だ。
しおりさんは期間限定の恋人だ。来週には、旦那さんの実家のある、和歌山に行ってしまうことになっていた。引っ越しなんかしなきゃいいのに。冗談半分、本気半分にそう言えば、「引っ越ししない可能性のが、ほんとは高いのだよ」と言った。
「ほんとに?」ついまじめに訊き返してしまう俺はバカだ。
「新居が放火に遭って全焼するかもしれないし、大地震で和歌山全土が壊滅状態になるかもしれないし、ダンナかムスコが東京でしか治せない大病にかかるかもしれない」
「……ひとつずつの可能性が希薄すぎるよ」
「キリないね、もしかしたらの話しだすとね」
いつからだろう、と息苦しさを感じながら考える。
俺はいつから溺れてしまったのだろう。はじめはうまく、水中での生活をたのしんでいたはずなのに。おかっぱ頭からのぞくうなじから、ローズの香りがする。しおりさんの香り。
「もしもだけど」
「うん?」
「来月しおりさんが和歌山に引っ越しちゃって、でもまた何かあって再会できたとしたらさ、旦那さんと離婚して俺と結婚してほしい」
「いいよ」
「ほんとに?」
うん、とくったくなく笑うしおりさんの目が夜のプールの水みたいにゆらゆらとしている。
言った尻から俺は後悔していた。もしかしたら、なんて、大人は信じたりするべきじゃないのだ。もしかしたら、は子供のする約束だ。信憑性のない、空に字を書くような行為。
ひとしきりの沈黙のあと、意思が疎通したみたいに「もしかしたらは長くてかなしいね」、と彼女はつぶやいた。暗い、穏やかな波のような目をして。
←→
[戻る]
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!