風のフアレク
10―1
原生林の木漏れ日が、否応なく閉じた目蓋に撫でるように当たり、フアレクは思わず目の上に腕を置いて光を塞ぐ。
木と木の間を、風と小鳥のさえずる声が通り、彼の耳の端をかすめていく。
息が透き通るように気持ちの良い朝だ。ひんやりと霜の降りた下草の上に寝転んでいると、本当にいつまでもそうしていたくなる。
しかし、半身になって寝転がっているフアレクは、不意に自らの尻をぐいぐいと押されている感触に気がつく。もちろんその正体は彼にとって、改めて見て確かめるまでもない。
「何すんだよ、クィアラ」
フアレクが寝ぼけ眼をこすり、仕方なしに起き上がったところで、クィアラは器用に彼の尻の上に置いた足のつま先をどけると、両手に抱えている木の実がいっぱいに詰まった大きな皮袋を、これ見よがしに見せつけてみせる。
早く起きて、手伝って
その脅しつけるような彼女の目に、フアレクも黙って従う他なく、そそくさと立ち上がって朝食の準備に取り掛かる。
その様子を見ていたクィアラは、馬の背にかけた薪を下ろすと、その頭を撫でて皮肉たっぷりに言う。
「あんたは本当に働き者だね。どっかの誰かさんとは違って」
二人はそれから数日の間、広大な山中をひたすら歩き、逃亡の旅を続けていた。しかしながら、長旅でその全身は疲労を重ねているにも関わらず、闘争と残虐の悪夢から解放されて、これまでにないほどいきいきと、その表情は生気と活力に満ちあふれているのだった。
そのうち、朝食の準備が整うと、丸太の上に腰掛けたクィアラは、袋いっぱいに集めた木の実と果実を取り出して、小刀で一つ一つ、丁寧に剥いていく。
「……食べてごらん」
クィアラに渡された小さな桃のような果実を、フアレクは口にほおばってみる。すると、口の中にたちまち水気と香りよい酸味が広がっていく。
こんなに美味なものを口にしたのは、彼にとって何ヶ月ぶりだろうか。
「……おいしい」
「本当? なら良かった」
クィアラの隣に腰を下ろしているフアレクは、それからというものの、彼女の細い指が滑らかに動き、木の実の殻を割っていくさまを興味津々に眺めている。
とにかく手先の器用な娘だ。感心したフアレクは、その様子をさらに間近に見ようと、彼女の肩に腕を回し、その上に自分の頭をひょっこりと乗せている。
そしてフアレクは、今度は好奇心を抑えることができずに、彼女が今し方割った親指大程の白い木の実に手を伸ばし、口の中に放り込んでかじってみる。
「……味、ないな」
フアレクの間延びしたような気の抜けた顔を見て、クィアラは弾けるように笑うが、しかしその笑いをすぐに収めると、今度はさも楽しそうな口調で、フアレクに講釈を加えていく。
「確かにねえ、味はないかも。でも、その実は砂漠を行き交う旅の人間なんかには、結構珍重に取引されたりするものでね、油分が多いから、とっても腹持ちがいいんだよ」
「へえー」
生粋の遊牧民であるフアレクにとっては、そんなことを知るはずもなく、彼女の持ちえる知識の一つ一つが、彼にとっては新鮮だった。
それからほどなくして、腹ごしらえを済ませた二人は、また立ち上がって出発の準備をするが、その時突如として、何かが森の茂みの中で蠢いていることに気がつく。
刹那、二人の間に緊張が走り、その気配がする方向を、目を見開いて注視してみるが、その後すぐに姿を現したその正体を見て、二人は顔を見合わせて、ほっと安堵の溜め息をつくのだった。
それは、なんとも可愛らしい、つぶらな瞳の子鹿だった。木の皮を剥いで食みながら、二人に興味を示したようで、時折首をかしげながら、少しずつ歩み寄って近づいてくる。
「可愛い!」
クィアラが目を輝かせて眺めている様子を見て、フアレクは気をきかせて、彼女に一つ耳打ちをする。
「こっちに連れてきてみようか」
「できるの?」
「やってみる」
彼はさりげなく、その子鹿のところにとことこと歩いていくと、その子鹿もまるで吸い寄せられるかように、フアレクの元に寄っていき、その鼻面を差し出した彼の掌にこすりつけている。
「わあ、逃げないんだねえ。なにかコツでもあるの?」
「心をきれいにしてたら、むこうから寄ってくる。でも……」
「でも……何?」
「いや、なんでもない」
そのあとの喉元に出掛かった言葉を、彼は言うことをためらった。
(……でも、俺は実際のところ、こんな獣を呼び寄せるような、優しく柔らかい気分を出したのはいつ以来なのだろう。
ここ何年かの従軍生活で、毎日死と向かい合い、神経をとがらせてばかりいた。何かに心を開くということを、すっかり忘れちまっていたんだ。
俺はこの女に出会って、変わった……。まだほんの数日しか経っていないというのに……。
すっかり心のガードが緩くなっちまった気がする。参ったね……)
しかし、物思いに耽るトゥグリクは、その女のはしゃぎ声により、ふと現実に戻される。
「わあ、今度は私にもすりすりしてくれた。ははっ、可愛いなあ……」
失っていた生来の気質を取り戻しつつあるのは、この娘も同じなのだろう。フアレクは、クィアラの屈託のない明るい笑みを見て、長らく凍てついていた心臓の血が、溶けて全身を満たしていくような、暖かな安らぎを感じていた。
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