[携帯モード] [URL送信]

そこぬけに明るい話(二司まぐろ)
タイトル詐欺ではないことを祈る
都心から急行で十分ほどの駅。
駅は住宅街の中心にあり、傍に時々枯れる人工川が流れている。
毎朝大量のスーツや制服がすいこまれていく駅の上り階段の前には桜の樹があった。樹齢百年は軽く超すだろう。現在、盛大に咲かせた花の後釜に新緑の葉を出し、巨大な木陰をつくっている。
夜は樹自体が影となる。『江戸の昔、幾人かが樹に住まう物の怪に殺され、翌朝樹の下には血の海が広がっていた……』この逸話から樹は「赤木」と呼ばれ、町名駅名にもなっている。
赤木の下では毎年花見や祭りがおこなわれる。幾つもの出店が赤木を囲うようにして並び、青いビニールシートの上では酒を嗜む者が、その顔をほのかに染めて赤木を仰ぐ。
しかし慌ただしく過ぎる平日の朝に赤木を見るものはいない。ただ大量のスーツや制服が途切れることのないもう一つの川のように、無言で流れていた。

梅雨直前の朝日は、見納めとばかりにはりきって差し込んだ。早朝の、未だ人影がまばらな駅前にも例外なく朝が来る。赤木の幹は一瞬にして影をとり去り、葉はいっせいに光合成を始める。
すると待ってましたというように、一人の青年が赤木の裏から顔を出した。駅前をぐるっと見渡すと、つまらなそうに唇をつきだし、小走りでどこかへ立ち去ってしまう。十数分すると一台のリアカーを引いてもどってきた。リアカーは青年が五人ゆったりと乗れるほど大きい。青年はその後一時間かけて5台のリアカーを運んだ。赤木の周りに五角形を描くように置くと、リアカーから剥がれた板に落ちていた白石を使って、看板と値札をつくる。
『野菜屋 赤木』
『トマト 一つ三十円』
青年が持ってきた5台のリアカー全てには、濃い緑のヘタを冠に熟れたトマトが山となってのっていた。

「へい、いらっしゃ〜い。そこの姉ちゃん良い脚してますねぇ。そんな貴方にトマトを一つ!」
ラッシュ前。磨き抜かれた艶のあるトマトを片手に、青年はトマトを売り始めた。人懐っこい笑顔、落語調の張りのある声、見るからに美味しそうなトマトは客の興味をひく。
しかし制限時間に背中を押される人々は、物珍しいトマト売りに一時の好奇の眼差しを送るだけだった。
「そこのお父さん、昨晩の飲み過ぎでふらふらじゃあないですか。知ってます? トマトって二日酔いに効くんですよ。……たぶんね」
40代過ぎのサラリーマンは、反射的に苦笑をして、頭をかいた。一度首だけで青年に礼をすると、時計を見て階段をうんしょと上りはじめる。その間、サラリーマンはひとときも立ち止まらなかった。遮断機の音が始まる。サラリーマンは重い体で、階段を一段とばしに上がっていった。
去っていった客に「いってらっしゃい」と声をかけると、青年は次の客を物色する。
「お姉さんちょっと肌悪くない? そんなあなたにトマ」
「うっさい!」
高いヒールを履いた女は青年を睨みつけ、甲高い声をあげた。駅前に響くほどの声の大きさに女も青年も驚き、周囲も二人を見た。女は血色の悪かった顔を真っ赤にして、小さな声で青年に「ごめんなさい」と言い、足早に去っていった。
しばらくきょとんとしていた青年は、ふと赤木を見上げ、輝く葉にか初夏の空にか、
「売れないなぁ」
と呟いた。しかし青年の顔には売れないことよりももっと別の大事なことがある、とでも言う様に唇をきゅっと引き結んでいた。ふと人が途絶える。青年は赤木の幹に体を預けて、売り物のトマトを一つ齧った。
小気味よく前歯がトマトの皮を裂くと、すぐに詰まっていた実があふれだし、青年の口の端を流れた。しゃくしゃくと噛んでいると、豊かで爽やかな香りが鼻をぬける。ジュルッと吸い上げる酸っぱい汁と厚く甘い果肉が、口の中で溶け合う。
青年は満足げに目を細めた。
「美味しいのになぁ」
青年の声に応えるように、赤木の葉がざわりと鳴った。駅前に梅雨を感じさせる湿った風が吹いている。背中の赤木はしっとりと濡れ、静かに呼吸をしていた。
あのお姉さんはここをどんな気持ちで通ったのだろう。
「分っかんねえ」
青年はトマトをもう一つたいらげると、もどってきた人波に再び挑んでいった。

「そこの嬢ちゃん。黄色い熊のキーホルダーつけた。そう、君。一つどうだい?」
数十人目で、やっと一人の女子生徒が立ち止まってくれた。人川が途切れることなく流れるラッシュ時になっていた。暑いだろうに冬服をきっちりと着ている女子生徒は、顔を俯けたまま「あの、その……」と上擦った声でぼそぼそ言っている。
「いーから触ってみて。百聞は一見にしかないから! 本当に肌ツヤツヤのペカペカのキラキラだから」
青年は強引にトマトを女子生徒に握らせた。トマトは女子生徒の手にあまるほど大きい。
女子生徒は目を開いて、手上の赤い宝石を眺めた。想像よりもずっと重い。指先で慎重にトマトをつかむと強い弾力を感じ、中身がぎっしり詰まっていることをこの重さとともに示している。先端へは数本の筋がのび、対するようにヘタは濃くそそり立っている。欠損のない赤色はよく見ると深い色合いをしている。
完璧に熟れたトマト。女子生徒は口内の唾をごくりと飲んだ。
「じゃあ一つ、ください」
「毎度あり! 三十円です!」
三十円払いトマトを受け取ると、女子生徒は初めて青年の顔をみた。青年が想像していたよりずっと幼い顔立ちだった。女子生徒は恥ずかしそうにけれど嬉しそうに頬を紅潮させて、ありがとうございます、と頭を下げる。
人波へと去っていく姿に青年は、
「嬢ちゃんありがとう! 嬢ちゃんのほっぺトマトみたいで可愛いから、もっと顔あげてけ! トマトの妖精さんいってらっしゃーい!」
と駅前に響きわたる声で叫んだ。
一仕事を終えた顔つきで、青年は空へと腕を伸ばす。『野菜屋 赤木』と書かれた白いエプロンの端が風に舞った。
袖をまくって、熟れたトマトを一つとる。
振り向いた青年の腹に、べちゃりとした音とともに鈍痛と赤い染みが広がった。湿った空気と潰れたトマトの濃厚な匂いが、青年の鼻にとどく。
腹をおさえながら見ると、人波が退いている場所に先ほどの女子生徒がいた。鞄を傍らに置き、投球フォーム終了の形をして顔は俯いている。
「ばかぁ」
女子生徒は小さく呟くと、怖々と青年を見た。
しかし青年は人懐っこい笑顔のまま、「すっきりした?」とたずねた。予想外の青年の対応に女子生徒は少し目を見開く。そのまま謝るでも怒るでもなく、手上のトマトと同じように青年を眺めた。
「トマト、怒らないんですか?」
「なんで?」
「お兄さんが大切に育てたものだから」
青年はその言葉ににんまりと笑った。
「僕がトマトを売っている目的は、そこじゃないから」
「でもこんなに綺麗なトマト初めて見ました」
「お嬢ちゃんはそれを投げたよねぇ」
女子生徒は鞄を持ちあげ青年に近づいた。お互いが近づくに連れ、困った顔つきなった。
「なんで怒ってるの?」
「なんで怒らないんですか?」
同時に言葉を発し、同時に黙った。青年は笑顔のまま女子生徒を見、女子生徒はふてくされた顔で青年から目を逸らしていた。
「私、このすぐ真っ赤になる頬がコンプレックスなんです。この頬で男子にいじられるし、友達にもからかわれるし」
「可愛いと思うけどなぁ。そのほっぺが好きな男はいるよ。ほら、実際にここに」
青年は汚れているのも構わず、エプロンの胸のあたりを叩いた。
「……トマトもう一つ」
「まいど、三十円です」
支払いトマトを受け取ると、女子生徒は数歩青年から離れ、振りかぶって叫びながら投げた。
「私の好きな人は色白の娘がタイプなんだって!」
先ほどより勢いの増したトマトは青年の胸に当たり、鈍痛と赤い染みが広がる。後方へ倒れこんだ青年に女子生徒が近寄る。青年が「すっきりした?」とたずねると、女子生徒は初夏の晴れやかな空をバックに大きく頷いた。
女子生徒を見送ってから、青年はリアカーから大きめの板を剥がし、白い石で文字を書いた。それを赤木の幹にかかる値札の左側にかけた。
『トマト投げ 一回三十円
※ トマト購入後、おひとり様一回まで』

トマト投げは青年の予想を遥かに上回り、大好評だった。ラッシュ時の駅前の人の川に、赤木へと向かう一つの支流が出来上がっていた。支流の人々はみな一様に顔を伏せ、なにか悪いことをした子供のようにふてくされながら怯えた表情をしていたが、投げた後はやはり初夏の空が似合う顔つきになった。
すぐにリアカー一台分のトマトがなくなり、青年はトマトで全身ぐちゃぐちゃになっていた。それでも青年は人懐っこい笑顔でトマトを、人々のいら立ちを受けとめ、頭から垂れてきた赤い汁を舐めとって美味いと叫ぶ。
そんな青年の姿だからこそ、トマトを投げた人々は、罪悪感をもたずにさっぱりとした気分で駅の階段を上っていくことができた。
そしてあのお姉さんが来た。

ラッシュも後半になったとき、青年は一人の女がリアカーの方へ近寄るのをみた。
「そこの人! 順番は守りましょーよ、って、朝のお姉さんじゃないですか」
女はトマト売りの青年に駅前に響くほどの声で暴言を吐いた、高いヒールのお姉さん≠セった。お姉さんは血色が悪い顔だったが、今は恐ろしいほど青白い。周囲の何人かは幽霊を見たかのように小さな悲鳴をあげた。
お姉さんはヒールを不規則に鳴らしながら、未だトマトが山盛りのリアカーに辿りついた。トマトの深紅とお姉さんの蒼白さが、祝い事の対比になっている。しかしお姉さんの目は虚ろ、唇は紫、髪はぼさぼさと、白黒の垂れ幕のほうが似合っている。
お姉さんはおもむろにトマトを一つ手にとると、食べ始めた。まるで飢えた猫のように食べる、食べる。お姉さんの白い手から赤い汁が次々と流れ落ちる。青年も周囲の人も、その壮絶で異様な光景にただ立ち尽くすしかなかった。
お姉さんは喉をならして飲み込むと、手をスーツの裾で拭き、懐の財布から札をあるだけぬきとってリアカーの中へ突っ込んだ。
「たぶん、足りるよ」
お姉さんはスーツを脱ぎバックを放り投げると、両手にトマトを持ち、
「社会のばっきゃろー!」
目を瞑り、髪を振り乱し、ところかまわずトマトを投げつけはじめた。
警戒していた人々はすぐに逃走を始めたが、ラッシュ時の人の多い広くもない駅前、犠牲者はすぐにでた。スーツが汚れたサラリーマン、メガネが吹っ飛んだOL、白いセーラー服に赤いトマトがべったりとついた女子高生は泣いていた。犠牲者は増え、駅前は喚き、叫び、泣く人々で溢れかえる悲惨なものになっていた。
青年は赤木の影に隠れて、繰り返されるトマト弾を避けていた。さてどうしたものかと顎に手をあて考える。隣にいた高齢のサラリーマンが「あんたのトマトなんだろ。早く処理してくれよ」と青年をせっつく。処理とは女をなのかトマトをなのか。青年は一瞬だけ人懐こい笑みを捨てて、鋭い視線を空になげた。
「ふぎっ、あんたなにすんのよ!」
女の甲高い声が駅前に響き、一旦トマトが止んだ。赤木の幹から青年が覗くと、お姉さんのシャツの肩にトマトがべっとりとついていた。重力にそって肩から腕、地面へとトマトの実が落ちる。
お姉さんが睨みつける先には、白いセーラー服を汚された女子高生が泣きながらトマトを掴んで立っていた。
「初めての、夏服だったのに」
「どうせ何着たってあんたはモテないわよ」
「あなたは会社クビになって、そうね、昨日は彼氏にフラれたりでもした?」
「うっさい!」
そうして女二人のトマト投げ合戦が始まった。しばらくするとどこからかトマトを当てられたOLが参加し、私服の学生が参加し、若いサラリーマンが参加しトマトを投げ始める。参加者はその後次々と増え、ついには駅前で五十人を超すだろう規模になる。騒ぎを聞きつけた町の住民が集まり始め、規模はますます大きくなる。
青年は人々のあまりの変貌ぶりに初めて驚愕の表情をした。行事以外、毎日毎日同じ動作を繰り返していた人々が、数時間も経たないうちに、トマトを投げあっている。
やはり人とはこんなにも面白い。なあ、赤木。
青年は赤木をぺちぺちと叩いた。赤木は青年の声に応えるように、葉をざわりと揺らした。駅前にトマトの濃厚な匂いを混じらせた、湿った風が吹く。手の中の赤木はトマト汁に濡れ、楽しそうに
呼吸をしている。
気付けば青年の隣にいたサラリーマンが消えていた。影をかんじて顔をあげると、サラリーマンが背広をぬいで立っていた。老体を労わるようにゆっくりとトマトを拾うと、青年に向かって投球フォームをつくる。投げる瞬間だけは、若い頃を思い出させるように俊敏だった。
サラリーマンも、OLも、女子高生も、若者も、年寄りも、男も女も、フラれクビにされたお姉さんも、トマトを全身に浴びながら、初夏の似合う笑顔をしていた。この赤木の下で。

振りかぶってトマトを投げながら、青年は逸話を思いだしていた。『江戸の昔、幾人かが樹に住まう物の怪に殺され、翌朝樹の下には血の海が広がっていた……』
現在、赤木の周辺は逸話のように赤く染まっている。地面も人々も樹も全てが真っ赤になっている。
しかし違うところがある。誰も死んでいない。物の怪も幽霊もいない。みんな笑顔だ。
そして樹の下にはトマトの海が広がっている。



あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!