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描いて、描いて、描いていく
描いて、描いて、描いていく

 大きなキャンパスに、筆をそっと近付ける。ぺたり。薄いベージュの下地に、茶色の絵の具が想像していたよりも強くのった。焼けて焦げたような茶色に、胃のあたりがむかむかする。違う、この色じゃない。

 赤を足す。混ぜて、黄色を入れる。混ぜて次に青。パレットの上にお行儀よく座っていた茶色は、窮屈そうに他の色に押し潰されていく。可哀想に。またぐちゃりと色を足した。

「わ、今日も描いてる。よく飽きないねえ」

 いきなりの声にびっくりして、思わず肩を揺らした。扉に目を向けると、そこには自慢の黒髪をさらりさらりと揺らすセーラー服。私の親友は軽やかな足取りで美術室に入ると、無造作に鞄を放り投げた。すとん、見事ミロのヴィーナスの足元に着地する。

「床に置かないほうがいいよ。あまり綺麗じゃないし」

「別にいいよ、少し汚れるくらい」

 そう言うと、彼女は石膏像に向かって手を合わせ「ヴィーナス様ごめんね、ちょっとの間置かせて」とおどけた。

 視線をパレットに戻す。混ざりきってないのか、茶色の端々に他の色が見えた。綺麗にしなくちゃ。パレットに絵の具を足して混ぜ始めると、あのむかむかとする感覚が再び迫り上がってきた。

「茶色作ってるの?」

 親友が私の手元を覗き込む。

「そう。赤と黄色と青を混ぜる」
「へえ、順調?」
「わからない」
「ふーん」

 私の答えをつまらないと感じたのか、彼女は質問を切り上げて退屈そうに窓際の椅子に腰掛けた。頭のてっぺんの髪の毛が、風に合わせて気まぐれに揺れる。ふぁいっおー、陸上部の掛け声とそれに続くリズミカルな足音に、心が軽くなる。後者の端っこにあるせいで薄暗い雰囲気のある美術室も放課後の光が差し込むと素敵に見えた。

 描きたい、と思った

 きっと三歳の夏、初めてクレヨンを握った時からそうだった。私の体の中には隠れん坊が好きな子供がいる。それはふとした瞬間姿を現して、時には楽しげに、時には囁くように、時には感情を爆発させて、声をあげるのだ。描きたい、描きたい、描きたい。

 体の真ん中から流れてくる子供の主張を受けて、手に持っているパレットを見つめた。絵の具を混ぜる。思考がぐちゃりぐちゃりと乱される。

いつからか、描きたい、は体の管のどこかに詰まって外に出てこられなくなってしまった。ああ、だからいつも、気分が悪い。

 半ば自棄になりながら絵の具を押しつぶしていく。どんな色を作ろうとしていたんだっけ。ふぁいっおー、いちに、さんし。よく響く掛け声が聞こえて、今度は何故だか惨めな気持になった。

 そんな私とは対照的に、親友は歌うように掛け声を繰り返した。

「いーちに―、いちに、さんし。陸上部は掛け声が楽しそうで良いね」

「あんたの部活はああいう掛け声なかったの?」

 そう聞くと、彼女はゆっくり瞬きをした。そして、ちょっと笑って言う。

「私、部活やめたんだ」

 あっさりと告げられたその言葉に、私は驚いて口をポカンと半開きにした。間の抜けた顔が面白かったのか、親友は大きく笑った。なんで、と聞くと、肩をすくめて答える。

「行きたい大学決まったから」

「だから、勉強に集中するために、部活を」

「そういうこと。私バカだから。一つの事に集中したいのそうと決まったら一直線なの」

 部活、あんなに楽しそうだったのに。部活と勉強両立できるかもしれないのに、なんて頭の中にいくつも出てきたけれど、彼女の顔を見たら何も言えなかった。顧問も先生に反対されても、友達に反対されても、彼女は意見を変えないだろう。

 それだけ真っ直ぐな瞳だった。伸びた背筋が格好良くて、思わず目を伏せた。その目は汚れたパレットと合う。それに比べてお前は。そう言われた気がして、胸が鈍く痛んだ。私は、と口を開く。

「私、私は、まだ、決まってない」

「志望校?」

「うん、そう」

 零した声は震えていて、情けなかった。駄目なのだ。今の成績ではあそこだ。あっちの方が優れている。あれが将来的に一番良い。いくつもの意見が私の周りを取り囲んで、窮屈で仕方がない。考えれば考える程ごっちゃになって、ぐちゃり、ぐちゃり。
 唇を噛んでじっとしていると、親友が椅子から立ちあがる気配がした。彼女は私の前まで歩いてくると、「うそ」と言った。

「本当は決まってるでしょ」

 その言葉に、戸惑いながら顔をあげた。親友の表情は柔らかく、でも瞳は相変わらず真っ直ぐだった。

「難しい事考えすぎて、分からなくなってるだけだよ。いったん全部手放して、単純に考えればいいのに」

 彼女は目を細めて優しく続けた。

「大きなキャンパスに未来を描く、とは言うけどさ。私だったら大きいキャンパスは広すぎて考えが纏まらないし、たくさんの色は混乱しちゃうよ」

 ふわり。

 体の中の、息をするところを塞いでいた硬いものが、溶けて消えていくような感覚がした。どきどきと胸の鼓動が聞こえる。私の中の子供が頬を林檎のようにして目を瞬かせている。なぜだか涙が出てきそうだ。

 そうだ、周りの意見に揉まれて、最初の自分の気持ちをいつの間にか忘れていた。

何も言わず、その場にただ立っている私に、親友は少し照れくさそうに笑った。

「ねえ、私のこと描いてよ」

 そう言って彼女は、スカートの裾をつまみ、爪先立ちでくるりと一周。長い黒髪が動きに合わせて円を描いた。

「プリントの裏の、鉛筆の落書きでいいからさ。私、あんたが楽しそうに描く絵が一番好きだよ」

 体のどこかに隠れていた、初めてクレヨンを握った時の三歳の私が、はじけるような笑顔で飛び出してきた。

 描きたい、描きたい、描きたい。

 パレットから手を離す。

 鉛筆を握りしめて、私はまっさらな紙に思いきり線を引いた。



あきゅろす。
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