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短編小説対決
四月十二日
教室の入り口から二メートル程離れた場所に教師があった。
彼の名前は覚えていない。私が学校に入ったのはつい三日前だ。元々人の顔や名前を覚えるのは苦手である。直前まで彼の授業を受けていたので、彼の担当は分かった。彼の担当科目が情報である。情報受容者の良心に頼ろうとする、理想論者だった。
教師の腹には切断面が斜めに走っていた。腹より下はこの部屋には無い。分厚い隔離壁の向こう側、廊下にある。
彼は隔離壁に切断された。授業を終え、教室を後にしようとしていた時の事だった。重厚な隔離壁が自由落下したのである。隔離壁は教師を床とで挟み、そのまま床にあった溝に収まった。途中にあった教師の腹は袈裟に両断された。
切断面は粗かった。腸が体内から飛び出し、スパゲッティのように絡まっていた。隔離壁自体は厚さ二十センチ程だ。鋭利な部分は無い。彼の体は「引き千切られた」と形容すべきかもしれない。
事件の時、教室には脊髄の折れる音が響いた。続いて、床に叩きつけられた肺から息が漏れ、声にならない音が断続的にした。それも二十秒程で止まった。
教師は短時間で事切れた。死因は急激な失血によるショック死だと推測された。

私と他者たちは困っていた。
教師の救命についてでは無い。今後の生存についてである。
無論、隔離壁を開ける事が出来るなら教師の救命も考えただろう。しかしその可能性は既に絶たれていた。その判断は教室に掛かった放送の内容から下した。放送は事件の直後に、歴史の映像資料で聞くような警報に続いて流れた。
「学校周辺に、未確認の、被害が、起こりました。校内でも、被害が、確認されているため、隔離壁を、下ろします。この状態は、最低三日間、継続しますが、最終的な期間は、未定です。必要に応じて、防災準備ロッカー内にある、防災準備品の、使用を、許可します」
 ノイズ交じりの電子合成音によって、情報は抑揚無く伝えられた。前日行われた避難訓練が教員の肉声であったのに比べると、対照的である。何故今回は電子合成音なのだろうか。
 元々有事にはそういう設定がなされているのか。
 あるいは、放送を入れる教員がいないのか。
 誰もが可能性を考えた。誰もが口にしなかった。
 
頻発する無差別テロと、就職氷河期を上回る就職暗黒期に見舞われる新世代に私と他者たちは該当する。私と他者たちはただ人の上に君臨し、身体と将来の就職の安全を自らの力で確保しなければならないと叩き込まれた。勿論叩き込まれたからそうするのではなく、そうしなければいけないのは最早自明となっていたからである。
そして私たちにとって、この私立進学校はそれを支援するための物でしかなかった。当然そこに青春を求める者などいない。誰も他者と仲良くしようとは思っていない。他者の存在は、無視するか、良くて仮想敵にするかしかないものであった。
この期に及んでも、不干渉は貫かれた。誰も他者に話しかけず、沈黙は室内で澱んだ。聞こえるのは他者の陰湿な息遣いと、省電力モードに切り替えられた換気音だけだった。私も努めて呼吸を静かに行い、教室の空気に溶け込もうとした。その間は自分の机の下、体育座りで待機していた。そうしていれば自分からの視線も他者からの視線も金属製の側板に遮られたからである。
狭められた視界の中には、上着を頭から被って壁に寄り掛かる者と、空いた机を繋げてその上で横たわる者がいた。彼ら以外は見えなかった。しかし、皆共通して他者を遠ざけようとしているに違いない。
 黙っているだけでも体力は消耗した。午後二時をまわった頃、私は机の下から這い出た。最小限度の会話で他者たちと防災準備ロッカーにあった飲料水と非常食の分け方を決めた。飲料水はペットボトルが人数分あったが、非常食は種類が多く、パッケージの数もまちまちだった。短い議論の末、ロッカー内の食料をサバイバルの観点から大まかにポイント化し、各々が一定のポイントの範囲内でロッカーから選び取っていく方式を採用した。選ぶ順番は籤を引いて決めた。
出席番号などもっと手間の掛からない方法もあったが、そのような方法では発案者が順番を決めるのと同義になってしまう。このような衆人環視の中で無用な争いを避けるためには、ひたすら公平で無ければならないという事なのだった。
私は比較的小さい数字が当たり、選択肢が豊富だった。缶おでんと板チョコ半分を選び終えると、私は再び自分の机の下に戻った。水とおでんは開封してから急速に腐敗が進む。私はアルミ製の包装がされている板チョコを一列分だけ食べた。
私がチョコを食べ終わると、部屋の隅に個室便所が出来上がっていた。食料配給中、番号の大きい他者たちが待ち時間を使ってこなしたのだろう。簡易トイレをロッカーから壁面の廃棄物投入口に移動し、周りに張ったロープにブルーシートを垂らした簡素な物だった。しかしこの状況下においてはこれで十分事足りそうであり、また、これ以上望みようが無かった。
後でロッカーの中身を確認した。他にもシャベルやのこぎり、ハンマー、バール、チェーンソーなどがあった。倒壊した建築材を退かすための物だろう。幸い部屋自体に被害は無かった。当分必要無さそうである。
教師の死体からは甘酸っぱい死臭が漂った。まだ我慢出来ないほど強い訳では無い。とりあえず教卓を移動して視界から排除するに止めた。
誰もがあれへの干渉は最小限に抑えたかったのだ。

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あきゅろす。
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