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ポータブルラジオ奇想曲(くれとー)完

シャワーを浴びたばかりの体が冷めないようにガウンを引っ掛け、コーヒーの入ったマグカップ片手にカタカタと無心にキーボードを打つのを数十分ほど続けていた頃だろうか。ひょいと横から伸びてきた手が画面を隠した。
手首に真新しい包帯が巻かれている。ブラインドタッチは会得しているのでその手の妨害は作業に支障を与えなかったが、集中力を途切れさせるには十分だった。
眉間に皺を寄せて視線を画面から上げると、何食わぬ顔をして背後から画面を覗き込んでいる少女がいた。
僕の座っている椅子の背もたれに体重をかけたまま、目は画面に表示された文章を追っている。
「蒼って作家だったの?」
「一応」
「社会人って、嘘じゃなかったのね」
「僕は正直者だからね」
「その割には、本名名乗ってなかったんじゃないの」
 無理矢理とわかるしかめ面を作ってから、少女は笑った。
伯父あたりから偽名だということはばれたのだろう。それでも少女は意図的に僕を蒼と呼ぶつもりらしかった。
目元を和ませてから、改めて手を差し出す。
「手当て、終わったわ」
「ふぅん」
「あの人、何者なの? 随分と処置が素早かったけど。お医者さん?」
「そ。僕の伯父。田舎から上京してきたところ」
「やっぱり本職の人なんだ。どうりで」
 得心がいった後にはーと感心したように息を吐いて何度も頷くと、少女は視線を僕の顔に向けた。
「お礼を言わないとね。助けてくれてありがとう」
「お礼、ね」
 冷めた感情が顔に浮かぶのが止められない。
ピクリとも動かない顔のまま僕はそっけなく少女を見つめ返した。
「それにしては助かったことに対して喜んでいないようだけど。単に余計なお世話だって言えばいいじゃないか」
「……お見通しなのね」
「まぁね」
 少女は笑顔を消すと、疲れたようにゆるゆると嘆息した。
「そうよ。本当は助かったって助からなかったって別にどうだってよかった。今回はあなたのおかげで助かったようだけど」
 垣間見える無気力な顔。だがそれをすぐさま笑顔で覆い隠して、少女は元の少女を演じ始める。
「でも一応お礼は言わせて。ありがとう」
「別に。勝手にやったことだから礼なんかいらない」
僕は書いた文章を保存すると、一旦パソコンをスリープ状態にした。作業は自分一人の空間でしかするつもりは無い。
つけっぱなしのテレビではニュースが終わり、しょうもないバラエティー番組が始まろうとしていたので手元のリモコンを操作して他局のニュースに変えた。
「咎めないのね」
「何が」
「自傷してたこと」
 曖昧に笑んだまま、少女が手首の包帯にちょっと触れた。僕は表情を変えずに事実だけを述べる。
「あんたにはそうしなきゃどうしようもない理由があるんだろ。僕にとがめだてする筋はない」
「へぇ、そんな考えなの」
 少女は虚を突かれたように目を見張ってから、思い直したようにでもあなたらしいわと呟いた。
「一つ、気になったことを聞いてもいい?」 
 地方独特の風習についてのほのぼのとした映像が流れる横で、少女がためらいながら口にした言葉の続きを僕は目線を投げることで促した。
少女は僕の意思をしっかり汲み取ったようで、睨むように見えるくらい真剣な目を僕に向けると静かな声で聞いた。
「どうして、あなたは私を助けたの? 誰かに干渉されたくないと言っていたのに」
「……気まぐれだ」
 実際、あのときは何かを思考する余地もなく、気がついたら体が動いていたようなものだった。
「だったら放っておいてくれたらよかったのに」
 少し不満げに言う少女。
やはりこの少女は、死ぬつもりでいたのか。自傷に及んだのは、自滅願望の産物か。
 だが、僕にとって少女の無気力は迷惑千万にすぎなかった。
まだ生きられる人間が死のうと思っているのに胸糞が悪くなる。それに、もし少女があの屋上で死んだのならばせっかく手に入れた平穏な場所が外の不特定多数の人間に踏みにじられて台無しになりかねないし、僕は人死にが出た場所でのうのうと過ごしていられるほど神経は太くない。
「気に入っている場所に血痕があるのは気分が悪い」
「ごめんなさい、そこまでは気が回らなかったわ」
 ようやく納得したように、少女は素直に謝った。物事を滞り無く進ませるための儀礼的な謝罪ではない、飾り気の無い素朴さがあった。
 同時に、少女は何か思いついたようにあと声を上げた。
「質問、もう一つ追加いい?」


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あきゅろす。
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