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ポータブルラジオ奇想曲(くれとー)完

「……やっぱり、自分で切ったのか」
 無意識の内に、掠れた声で僕はそう問い質していた。少女は痛みを感じていないはずないのに、笑んだまま、悪戯がばれて叱られたときの子供のように神妙に頷いた。
呆然としたまま、僕は重ねて問いかける。
「……どうして」
「そうね、多分ストレスのせいなのだと思う」
 血を流しているのは自分なのに、まるで他人事のような口ぶりで原因を指摘する。
なまじ表面上落ち着き払っているように見えることが、逆に少女を得体の知れない存在として際立たせていた。
「巻き込んでしまったからには、あなたには私の事情を聞く権利があるわね」
 僕がうんともすんとも言わない間に、あくまで淡々とした語調を崩さず、少女は独白のように語り始めた。
 少女の父親は酒と女にだらしがなく、それが不和の原因となり母親と離婚した。少女の親権は母親に渡されたそうだが、母親はしばらく後に再婚。
その時相手には冷遇され、母親も婚時にかなり父親に酷いことをされていたらしく、やがてその恨みつらみを全て少女にぶつけるように別れた父親の血が流れているからと邪険にされるようになった。
家にいても居心地が悪く、学校に行く意義も見出せない為にこの屋上に来ていたのだと。
母親は自分のことにかまけて少女の学校や生活に対して気を配ることが無いので、簡単に学校をサボれるのだとさえ言った。
「空を眺めているとまだ気持ちが治まるからここに来ていたんだけれど、やっぱり限界はあるものね。煙草を吸う人たちは煙草を吸うと落ち着くと言っていたからそれもどうかと試してみたけど、やっぱりこの手段に戻ってくるしかなかったのよ」
 少女はそこでふわりと微笑んだ。悟りきったような、どこか諦観の感じられる儚く透明な笑顔だった。
「前のときのことは、水に流してくれると嬉しいわ。私もあまり人に話したくないことを話したのだから、これでおあいこでしょうし」
 まだあんな些細なことを気にしていたのか、と混乱する頭のどこかで考える。別に僕ごときの機嫌を損ねたぐらいで人生に変わりはないだろうに。
尚も視線を離せずにいると少女は聞き分けの悪い子供を言い諭すように柔らかいながらも厳しさを感じさせる声で言った。
「あなたは干渉が嫌いなんでしょう。だったら私のことは放って置けばいいわ」
痛みを感じているはずなのに、苦痛を吐き出すこともなく、笑顔を浮べたまま立っている。その姿は、酷く歪んでいると思った。
決して似ていないと思っていた僕と少女の姿が、合わせ鏡のようにそっくりに見えた。少女が傷を抱えて歪んでいる姿に、僕は僕自身の姿を見た。
身悶えする位の痛みを受け入れる為に歪んでいった、自分の姿を。
 変な少女だとは思っていた。だがこれまで不安定さを隠し持っているようには見えなかった。
それは巧妙に少女が自己のほころびを繕っていたということなのだろうか。
「雨ね」
不意に少女が空を見上げて、ポツリと呟いた。空から降ってくる冷たい雨粒を、僕の体も感じる。
それほど待たないうちに、雨脚はどんどん強くなる気配を見せた。夕立のような激しい雨がやってくるのだろう。
少女は雨に打たれながら、せいせいしたような表情のままその場を動かずにいた。もしかしたらその場で命を落すかもしれないというのに。
腕から流れ落ちる血を雨粒が洗うが、その度に新しい血がじわりじわりと流れ出る。
凍ったような時間の中で、耳元のイヤフォンだけは几帳面にシャカシャカとニュースを流し続けていた。
ドクリ、ドクリと心臓の音が鳴った。くらりと世界が回る。
倒れそうになった体をなんとか持ちこたえて、僕は少女を睨みつけた。
前に少女に怒りを覚えたときとは違う、腹の底からふつふつと湧いてくるものがあった。
 その腕から命が流れ出しているというのに、それを止めようともせずあっさりと今を捨てようとする少女、それが許せなかった。
「……来い」
 息を吹き返したかのように体が動き始める。衝動的に少女の手を掴んで走り出した。
負傷していない腕を捕まえた一瞬、少女が唖然としたのを見たが、それからは振り返らず一目散に走った。
後ろから少女が懸命に何か言っているのが聞こえた気がしたが、ラジオと雨音のせいで上手く聞こえない。それでも有無を言わせない勢いで走った。
 雨が降る。遮るように雨が降る。ひた走った。
レンズに水滴がついて周りが見えなくなったから、眼鏡は地面に叩きつけた。世界と自分の壁のなくなった状態で、僕は無我夢中に走る。
自宅のあるマンションにたどり着く。エレベーターは最上階に上がっていた。待っている時間も惜しくて、少女を引っ張りながら階段を駆け上った。
鍵の開いていた自宅のドアを手荒く開く。部屋の中にいた髭を生やした中年の男が、淹れかけのコーヒーを忘れたようにいきなり息せき切って飛び込んできた僕を見てあんぐりと口をあけた。僕がこんなに慌てていることなど珍しいから、伯父も狼狽したのだろう。
僕は雨にぬれて額に張り付いた前髪を手早く掻き上げて、当惑している少女をずいと押し出した。
素早く呼吸を整えて、低く剣呑に一言述べる。
「手当てして欲しい」
 伯父は奇妙なものを見た目で僕を眺めていたが、ずぶぬれの僕と腕から血を流している少女を交互に見て意を決したように腕を組んだ。
「事情はよくわからないが、とりあえずこの子の治療が先だな。こっちに来なさい」


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あきゅろす。
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