[通常モード] [URL送信]

十三日の金曜日、仏滅(蒼緋)完
2
 何も手がつかず、一週間が過ぎた。その間に湧の通夜、葬式が済んでしまった。終わってみればそもそも彼の存在自体がなかったように思えるくらい日常は変わらず、気を抜けば自分まで新山湧の顔を忘れてしまいそうだ。
 彼は自殺したらしい。深夜に、風呂場で、手首を切って。
 おかしい。
 絶対におかしい。
 彼は自殺するような人ではない、とはいわない。いくら親友とはいえ、修介には分からない湧の悩みがないとは限らないのだから。そんなことを言いたいのではない。修介が言いたいのはあのメールだ。
 助けて、と打とうとして打てなかったあのメール。湧は明らかに修介に助けを求めていたはずだ。彼は気配りがきく人間だったから深夜にメールはそうそう送ってこなかった。そんな彼が風呂の変換すら惜しんでメールしてきたのだ、よほどのことがあったはずだ。
 自分が助けに行けばよかったのか? だが深夜だったし、修介の家から湧の自宅は遠い。助けに行くのは無理だったろう。
 それを悔やんでも仕方がない。
 そんなことより、知りたいのは、湧は本当に自殺したのか、ということ。あのメールをふまえると、湧が自殺した可能性は低いように思われる。ならば仮に湧が自殺でないと仮定して、残る可能性は事故か殺人である。事故で手首を切ったとして、死ぬほど深くは切れるだろうか? 手首で動脈まで達するには骨が見えるくらいまで切らなければならない、とどこかで聞いたことがある。修介には事故でそこまで深く切れるとは到底考えられなかった。
 となれば、残る可能性は殺人、つまり事件。だが、深夜に彼の家に誰かが忍び込んだという話は聞いていない。それに、殺人犯(空き巣かもしれないが)が忍び込んだとして、わざわざ風呂に入っている湧だけを殺し、その両親は殺さないなんて、いくらなんでもおかしすぎる。
 考えれば考えるほど謎は膨れ上がり、修介は頭を抱えた。もう夏休みの宿題どころではない。いてもたっても居られず、気が付くと修介は自宅を飛び出し、湧の家へ向かっていた。
 電車をいくつか乗り継ぎ数十分、駅から数分歩いたところに有る何の変哲もない、これといって特徴さえないふつうのマンション。往々にして、凶悪な事件、猟奇的な事件はこういった普遍的な場所で起こる。推理小説の常套だ。このマンションに新山湧の母親は今は住んでいないらしい。やはり引っ越してしまったのだろう。最初の頃こそ黄色い立ち入り禁止のテープが幾重にも張り巡らされていたが、湧の死が自殺と判断されてからの警察の撤退は早かった。一週間経った今ではあの黄色い残像は一切の跡を残していない。どうやら湧の部屋にも入れそうだ。
 マンションの管理人に交渉すると、あっさりと部屋の鍵を渡してくれた。子供で親友だというのが警戒心を解くのに大いに役立ったらしい。管理人は死人が出た新山家の部屋を気味悪がっているようだった。
 不気味なほど音が全くしないエレベーターで四階に上がり、勝手知ったる湧の部屋へと迷うことなく突き進む。何度か彼の家にはお邪魔したことがあるので、修介には湧の部屋の間取りもだいたいは分かっている。
 表札はまだ新山のままだった。鍵を差し込み、ひねる。かちりと軽い音がして、これまたあっさりとドアは開いた。
 そっとドアを開くと突如濃厚な血の匂いが鼻をついた。一週間経ってもこの強烈な匂いはとれていないようだ。吐き気を催すほどに強い鉄錆びた匂いに修介は顔をしかめつつ、湧の家へあがる。正直、ことが起こった直後のようなこの匂いの中には長時間いたくない。修介は全ての部屋を調べるつもりだった予定を変更し、湧が死んでいた浴室だけを捜索することにした。
 浴室へのドアは容易に見つかった。洗面台や洗濯機などの水周りが集められた、ごく普通の洗面所の先だ。修介は浴室の擦りガラスのドアを開けた。
 吐き気すら引っ込むほどの、あまりに激烈な鮮血の腐臭。視界がその匂いだけで鮮やかな血の色に染めあげられる。
 修助はドアを開けた瞬間に微かな違和感を覚えた。白いタイル張りの壁には一切の血痕がない。拭き取られたかと思ったがそれも違う。天井にも、バスタブにも、血痕は全く見あたらない。
 ただ紅いのは、床。
 床一面が赤茶けた血の跡に覆われている。拭き取ったのだろうが、それでも。それでも、ここで人間が一人死ぬくらいの血液が流れ出たということが分かるくらいに、血の跡はべったりとそこに遺っていた。
 静脈を切ったなら止血すればなんとかなる。動脈は切れると一瞬だ。湧は血を見て動転して止血できなくなるような男ではなかったから、きっと切れたのは動脈だ。だが、動脈が切れれば血はあたり一面に飛び散るはず。
 それなのに。
 それなのに、血が飛び散った痕跡は見られない。ゆっくりと床に血の池を作ったような、そんな血痕。ますますわけが分からない。
 謎が増えたもやもやと共に吐き気と胸のむかつきがいい加減耐えきれなくなってきたので、修介は探索を打ち切り、外へ出た。鍵を管理人に返し、マンションの敷地外に出る。
 ちょうど入り口の真横に、入ったときにはいなかった一人の警察官がいた。何か聞けるかもしれないと、藁にもすがる思いで修助は彼に話しかけた。
「あの、」
「ん? なに?」
「このマンションに住んでいた、新山湧についてお聞きしたいんですが」
 警官は少し迷うような様子で顎に手をあてた。ふっと彼の瞳が曇る。
「君、自殺した子の友達?」
「湧は自殺なんかじゃない」
 思うより先に口をついて言葉が出ていた。警官は修介の語気に気圧されたようで、きょとんとしている。
「多分死ぬ直前、に、湧からメールが届いたんだ。遺書とかじゃない。助けてって、書いてあった」
「……それ、今見せられる?」
 修介は彼に湧からの最期のメールを見せながら、はっきりと強く言った。
「これを見る限り、湧は自殺なんかじゃない。自殺する人が助けてって言うはずがない。だから俺は、真実が、知りたく、て」
 ひと思いにまくし立てているうちに目頭が熱くなって涙がこぼれそうになったが、耐えた。泣いている場合ではない。この警官から、何でもいい、情報が欲しい。
 一通りこのメールを捜査資料として保存し終えた警官はおもむろに口を開いた。
「それで、聞きたいことは?」
 修介はぱっと顔を上げた。
「質問の内容によっては答えられないのもある。でも、答えられるものなら答えよう」
 そして修介は警官に様々な質問を浴びせた。湧の素性を知っているだけに、自然彼の質問は捜査によって警察が得た情報に関してのものが多くなった。当然だいたいは守秘義務だか何だかで答えてもらえなかったが、いくつかは教えてもらえた。だが、そのどれも謎を深めるばかりで収穫にはほど遠い。
 むしろ謎が増えた。あまりにも不気味なその死に様。極めつけは、これだ。
「新山湧は検視の結果多量出血による失血死・・・・・・だけど、おかしいんだ」
「おかしい?」
「彼の体についた傷は右手首の傷のみ。これはカミソリでついたものなんだが、どうみても傷が浅すぎる」
「? つまり?」
「この程度のちょっと太い血管を切った程度じゃ普通死なない。だけれど彼は失血死している。他のところからの出血もないし新山湧は健康体。つまり、」
 背筋に、冷たい氷がねじ込まれるような感覚。

「新山湧は死ぬはずのない傷で死んでいる」

[*前へ][次へ#]

あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!