[携帯モード] [URL送信]

夜半の風(煌鷹)完
レイズとファルエラ
 神殿の中の空気は澄んでいた。何十年も放置されている筈なのに、彫像が埃や砂を被っている様子は無い。これは誰かが拭き取っているからなのか、それともこの場所の神聖さ故なのか?
 レイズは寒さに身震いした。雪こそ降ってはいないが、石造りの神殿はやはり底冷えする。それでも、冷たい風の吹き荒れる外で一夜を過ごす事を考えればありがたい……もう三年以上も旅を続けているレイズとファルエラだが、この夜のような寒さは初めてである。
 レイズの旅の目的――それは、天地のあらゆる秘密や知識がまとめられた『ラジエルの書』を探すことである。『ラジエルの書』は始め、人間の祖であるアダムに与えられ、やがてエノクが『エノク書』を書く際の参考にもされ、次には方舟伝説で知られるノアに、その次にはユダヤ王ソロモンの手に渡った。以後その本の所在は分からない。
 「君がこの建物を知っていて助かったよ、ファルエラ…お陰で凍死は免れそうだ」
 「たまたま知っていただけだ」
 ファルエラは人の好い笑顔で微笑んだ。
 彼とは出発の前、酒場で出会った。酒場の主人に旅の目的を話していたら、偶然居合わせたファルエラが「連れて行って欲しい」と声をかけてきたのだ。自分は頻繁に旅に出かけているので経験もある、足手まといにはならないから、という彼の申し出をレイズは快く受けた。というより、初めてで最後かもしれない旅にレイズも不安を感じてはいたのである。
「今までにここに来たことはないけれど、話は他の旅人から聞いたことがあったからな。でも人は滅多に来ないということだった」
 「ふうん。でもそうだろうな…俺も、『ラジエルの書』が北にあるという情報を耳にしなければ来ることは無かったと思う」
 ファルエラは博識である。今回も彼の案内でこの神殿に辿り着いたのだ。そして彼は、毎晩のように旅の話や興味深い話を聞かせてくれている。
 「さあ…今日は何の話をしようか?」
 「ノアの話の続きを聞きたい」
 「そういえば途中になっていたな。ええっと…ノアは『ラジエルの書』を読んで、近いうちに大洪水があることを知った。そして同じく『ラジエルの書』から方舟建造に必要な知識を得て、彼が方舟を造った、というのは有名な話だ。だが別の伝承では、ノアは〈太陽の天使〉から医学書を受け取ったとされる。その伝承によるとその医学書も、『ラジエルの書』と同様の内容が書かれていたという」
 ファルエラは神話や『ラジエルの書』について、レイズより遥かに詳しく知っている。ヤコブという人間がウリエルという天使と格闘をして、長い時間互角に戦った挙句に関節を外された話や、堕天使の汚名を着せられた天使ラグエルの話、旅に出たトビアの道連れとなり彼と彼の父親を助けた〈太陽の天使〉の話もあった。神話に登場する神々や天使の名前をファルエラはよく記憶していたが、〈太陽の天使〉の名は忘れてしまったのだという。
 「ということは、その医学書と『ラジエルの書』は同一の書物だった可能性があるということか」
 そういう説もある、とファルエラが答えた瞬間、建物の奥の方から大きな物音が聞こえた。石造りの神殿の中でその音は反響し、鐘の音のような余韻を残している。
 「誰かいるのか?」
 「人…だといいのだが。獣なら厄介だ」
 そう言うとファルエラはズダ袋から手探りで藁の束と火打石を取り出し、慣れた手つきで藁に火を点けた。レイズは毎度のことながら感嘆の声を漏らす。こんなに長い間旅をしているのに、彼はまだファルエラのように手早くは点火できない。
 「俺は夜目が利くからな」
 松明の明かりに照らされたファルエラもまたいつものように笑った。
 「奥まで様子を見に行ってみる。来るか?」
 「勿論だ」
 レイズは立ち上がって友人の後をついて歩いた。途中何度か分かれ道があったが、ファルエラは躊躇う様子もなく奥へ奥へと進んでいく。松明の灯りの届かない廊下の先は真っ暗で何も見えない……ただ二つの足音が響いていた。


[次へ#]
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!