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残る爪痕 血脈の果て (薩摩和菓子)完
「狂死」
目の前の学者は恐れ戦いていた。己の近付くに合わせ、彼も後退する。学者はそのままじりじりと、調理場の奥へ奥へと下がり、背中を調理台にぶつけた。行き止まりだ。調理台に手を突こうとする。すぐに手を離した。異様な感触に生理的な不快感を覚えたようだ。己以外には当然か。十分程度の間でこの小屋全体に芋虫を張り巡らしてある。どこであれ、素手で触るのはお勧めしない。
 学者が屈み込み、踏鞴を踏み、大振りで首を掻き毟った。さっき衝突した時、首に芋虫が付いたようだ。しばらく見下ろしていると、学者が静まり、顔を上げた。屈んでいる間も調理台から徐々に離れていたせいで、今学者と己の顔は拳一つ程も離れていない。首筋には赤い線が幾重にも走っていた。目は今にも狂気に振り切れそうだ。その目が私の目を見つめた。唇が震えているが、何も言葉を発しようとしない。分かっているのだ。説明など、言葉など目の前の相手に無用である事を。
 己は上を見た。学者もそれに釣られて上を見る。彼の頭上には芋虫の大群が天井に張り付き、頭をもたげていた。最寄の一匹は学者の丈まで既に下りており、先程の己以上に学者の顔に接近していた。学者は驚愕の余り口を開けた。そこに大群が雪崩れ込んでいく。一刹那の内に口は芋虫で溢れ、気道や食道に流れ込む。学者は芋虫を吐き出そうと跪き、喉に右手を当てた。芋虫は尚も天井から降り注ぐ。首に、頭に、腕に、足に。皮膚を、体内を蠢く刺激が絶え間なく神経に送られる。
 それなりに健闘してはいたが、直に学者の残された理性が消滅した。両手で全身を掻き毟り、顎を咀嚼するように幾度も噛み合わせ、体を地面に擦り付けるようにのた打ち回る。学者が芋虫の緑色の体液に塗れていく。その体液に更に芋虫が群がる。芋虫のライフスパンに共食いは組み込まれていないが、目の前に屍がある時は躊躇無く体に取り込む。同種の肉体はあらゆる食料の中で最も消化の効率が良い。蛋白質の構成が最も自身に近しいからだ。
 芋虫は一度指示を与えたら後は何もしなくて良い。もう人間が芋虫の大群相手に狂死するのは幾度と無く見てきたので既に興醒めている。体を壁や床に打ち付ける音が消えたら調理室に戻るとする。己は居間に戻った。

壁際の本棚から目ぼしい資料や論文を選り分けたところで、芋虫が足首に極小の歯を突き立て、記憶を神経に伝達した。学者は既に事切れている。それを芋虫が目撃してから、ここに移動するまで幾らか経っているだろう。どうやら己が調理室を出てすぐらしい。芋虫を操れるようになってから、感覚が非常に鈍化しているように思える。代わりに芋虫越しに情報を得る事が出来るようになったのであまり不便では無い。
調理室に戻ると、確かに死体が転がっていた。首から大量に血液が流れている。首筋を引っ掻いた余りに頚動脈を切断してしまったと見られる。狂死の最も多いパターンだ。最も学術の天才性を狂死の特殊性で計れる訳が無い。やはり己は学者に、死に際までその天才性に期待していたらしい。少々肩透かしを食らった気分だった。
学者の死を確認すると己は小屋を出た。このまま傭兵を追おうかとも思った。しかし己が傭兵の逃亡に気付いたのは芋虫越しなので、気付いた時点ですぐ出発しても、ノース州境を超えるまでに追いつけないだろう。己が州主の身である以上、自身が治めているノース、及びトースから別の州に行くには将軍の許可を取らねばならない。別に通報者を一人逃さず殺していけば己が越境した事は気付かれないだろうが、後々死体が見つかって騒ぎになるのは好まない。傭兵を己の意に同調させる為にわざわざ懐の爪を使う必要は無い。傭兵を追うのは諦め、下の村に向かう。それは眼下に広がる、この小屋と同じ造りの家々の群れの事だ。学者が城を出て以来、その村に毎週学者が必要とする日用品や食料を送らせていた。今日からそれは要らなくなった事を知らせなくてはならない。

真夜中だが、村長はまだ床に着いていなかったようだ。王族でない為常に虹彩が赤い。ドアを叩くとすぐに応対してくれた。軽い挨拶を交わすと、これからは物資を学者宅に届ける必要は無い旨を伝えた。理由は学者が失踪したからという事にする。探さないのかと質問されたが、大半の資料の解析が終わり、そろそろ己の庇護下から独立して欲しかったので願ったり叶ったりだと返答する。合点が行かないようだったが、他ならぬ王族の発言に対してあまり追求しなかった。
「近頃、海岸から百リーゲル程離れた所をよく不審な船舶が徐行しているらしいです。上陸を図っているようには見えませんがどうにも不気味で。何か手を打った方が良いでしょうか」
別れ際、村長から相談を受けた。
「確かにその船舶の本意は考えあぐねるが、上陸の兆しが見えるまでは下手に手を出さない方が良いだろう。代わりに兆しが見えたら遠慮無く沈めても良い。ノメイルの公式貿易、及び軍港はオルスだけだから侵略扱い出来るはず」
 無難に返答する。
トース沖合いを漂う船。確かに目的が窺い知れなかった。ノメイル諸島自体北半球では東に突き出ているのに、その東方を通る事に何の利益があるのだろうか。燃料の無駄遣いとしか思えない。もしその行為に意味があるとすれば、それはノメイル沿岸を運行する事自体が目的である場合だ。しかしそれはどのような場合かと訊かれれば皆目見当がつかないと言わざるを得なかった。

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