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残る爪痕 血脈の果て (薩摩和菓子)完
「忌憶」
熟睡の最中にあった頭に、弾力のある拳大の物が当たった。
奇襲だろうか。アラシュは休眠から戦闘体勢に切り替えた。頭脳は瞬時に明晰になり、神経は張り詰める。物体の飛来してきた方向から離れ、ベッドの陰に身を潜める。気付かれないよう一切の音を立てずに五感を澄ませた。とりあえず半径二メートル以内に人の気配は無い。彼は警戒を緩めずに、今まで自身が横たわっていたベッドの上に目を遣る。そこには細い棒状の突起の付いた黒い球体がある。手榴弾のようだが、柔らかいベッドに着地して不発に終わったらしい。もし正常に起爆していたら生存は不可能だっただろう。僥倖だったと言う他は無い。しかしまだ危機が去ったという訳でも無い。手榴弾の不発を不審に思った敵が更なる攻撃を仕掛けてきてもおかしくは無いのだ。触発させないようベッドを回り込み、窓の傍らに張り付く。恐らく手榴弾を投げ込まれたのはこの窓だ。そこから外を覗く。物々しい部隊が配置されているようではないが、油断はできない。茂みや大木の陰、あるいは眼下に潜んでいるかもしれない。盲点となりやすい下の方に目を向けると、確かに怪しい物が見えた。小屋の窓から突き出された一本の手が下を指差している。その窓は人が通り抜けられる程に大きくないから、きっと仲間を屋内に誘導するための合図を発しているのだろうと彼は推測した。この部屋に直接人員を送り込もうとしているに違いない、と。
窓枠に手を掛け、そこから真下に飛び降りた。部隊がこの部屋に着くと彼に逃げ場は無くなる。残るは今彼が外を窺っているこの窓だけだったのだ。
姿勢を崩さぬよう両手で平衡を保ちながら、迫り来る衝撃に備えて膝に力を込める。
彼は音も無く着地した。体重を膝で殺し終えるとすぐに壁に張り付く。まずは指示を出している男から始末しよう。窓ににじり寄り、そこから突き出ている左腕を掴んで下に引く。その腕の上を滑るように手刀を、窓枠越しに露になる頚椎に打ち込む。しかしそれは阻まれた。相手が窓枠と首の間に右腕を差し込んでいたのだ。
「何をしている」
 窓枠越しに押し殺した、つい先ほど聞いたばかりの声が聞こえた。
 これはハイルドの声だ。
 何故だ。誰か、例えばミュールドに買収されたのか。それにアラシュが物音を立てないのは他の隊員に察知されないためだが、ハイルドには声を荒げない理由は無い。むしろ大声で仲間に助けを求めるのが自然だ。自分に敵対していると判断するにはあまりにも行動が不自然すぎた。
「何を誤解しているのかわからないが、私の言う事を一旦聞いて下さい」
 混乱している頭にハイルドの冷静な言葉が浴びせられる。それを聞いて、アラシュはハイルドを信用する気になった。先程起こった事の原因は未だわからないが、ハイルドはそれに関与していない。アラシュは掴んでいたハイルドの左手を離した。ハイルドは安堵に一息つくと、ゆっくり確実に話し出した。
「居間に貴殿を追う者がいます。私が彼を留めておきますので、その間にオルス港へ行って下さい。出来ればそこから海外へ逃れて下さい。彼も海外まで追ってくる事は出来ません」
 急に逃げ出せと指示され、アラシュは混乱した。特にハイルドの言動の中核にある『彼』というのが一番の謎である。それさえ分かれば対処法の意味も自ずと分かるだろう、という事でもある。
「『彼』というのは誰ですか」
 ハイルドは躊躇いがちに答えた。
「私の雇い主です」
ミュールド。紙だけ渡してアラシュをトースに行かせた男が、その深夜にわざわざ尋ねてくるのは全く利に適わない。しかし他ならぬハイルドが言うからには、そうなのだろう。アラシュは、自身でも不思議な事に、出会ってまだ数時間と経っていないハイルドに対して全幅の信頼を置いていた。それは彼の持つ誠実さと、ミュールド家との距離感に対する類似性が、彼に親近感を抱かせたからかもしれない。
 確かに来訪者がミュールドなら、海外へ逃げればガゼルに追跡される恐れは無い。州主は自身が統治する州から将軍の許可無く離れることができず、ましてや海外への許可は前例が無い。海外へ渡る事ができるのは登録済み傭兵だけであり、ガゼルが傭兵になる事などありえない。海外に行けばミュールドのみならず、ガゼル全般から逃れる事が出来るはずだ。
眼下を蠢くシルエットに気付く。窓枠に芋虫が止まっていた。アラシュに釣られてそれに目を遣ったハイルドは顔を原始的な恐怖に歪めて仰け反る。顔が窓枠から離れ、ハイルドの肩越しに台所内部が見えた。至る所に芋虫が這いつくばっている。小振りな流しや木製のまな板、湯気を立てているケトルの上にまでだ。ネーズルにもトスキールにもいる、人家には入らず、作物も食い荒らさない、ただの平凡で人畜無害な芋虫だ。しかし彼の記憶は、そのような位置づけをさせなかった。彼にとってそれは、原体験の引き金に吊り下げられたおもりでしかなかったのだ。
芋虫の大群が、彼の意識を蝕んだ。

 せまいすきまに、ひかりがさしこんでいる。じょちゅうがぼくをよんでるみたいだけど、よくきこえない。
 いま、ぼくはちちうえのへやにあるようふくだんすのなか。たくさんのふくがはんがーにかけてあって、ちょっとあせくさい。
 いま、ぼくはじょちゅうとかくれんぼしている。じょちゅうがおにで、ぼくはかくれないといけない。
 おとがした。どあがひらくおとがした。だれかがはいってきた。どあがしまるおとがした。かぎがしまるおとがした。
 せまいすきまのまえに、はいってきたひとがたった。ちちうえだった。つかれたかおをしていた。ちちうえはたんすのとびらにてをかけて、ひらいた。
 ひかりがすごくつよくなった。ちちうえはかたてでたんすをかきまわした。ぼくはみつからないかとびくびくしたけど、おくのほうにいたのでちちうえにはみつからなかった。
 めあてのふくをみつけると、ちちうえはたんすのまえにあるつくえのうえにふくをおいて、きていたうわぎにてをかけた。そういえば、いままでちちうえがふくをぬいでいるのをみたことがなかった。
 ちちうえのくびすじがまるみえになった。そこにはくろいせん。ちがう、よくみると、
 せなかに、はんぶんうまった、いちれつの、いもむしだった。

「大丈夫ですか」
 ハイルドの呼び声がアラシュを現実に引き戻した。顔をまた窓枠に近づけている。一通り芋虫を払ったのであろう。
「はい。大丈夫です」
 大丈夫ではない。喉は灼熱の砂漠のように渇き、肌からは渓谷の滝のように汗が流れている。だが、無闇にハイルドを不安にさせる訳にはいかない。これはアラシュ自身の問題だ。他人の手を煩わせるような事では無い。
「確かに海外に逃げれば追っ手は来ないでしょうが、生憎今は手持ちが無いのです」
 アラシュは前回の仕事で、借りていたオルを駄目にしてしまってた。
「貿易船に乗せて貰えるかどうか」
 海を渡るには貿易船に乗せて貰うしか無いが、それには高い依頼料が必要なのだ。
「私も金銭の持ち合わせはありません。今の生活には使わないので。ただ」
 何か良い案があるのであろうか。
「現在トスキールとネーズルは兵をトルカセニレ島に集結させ、対帝国戦に備えております。かなりの大型戦が予想されますので、傭兵の募集もあるでしょう。オルス港に派遣船が停泊しているかもしれません。ただ、もしそうなら離港が近い筈です。急がないと間に合わないかもしれません」
 ソノスを離れて療養中だった所為であろうか、アラシュはその事を知らなかった。なるほど。海外派遣なら仕事も海外亡命も、むしろ報酬を得ながら達成する事が出来る。確かに申し分無い提案だった。出来過ぎた感もあるくらいだ。
「わかりました。貴方の提案に従います。オルを飛ばせば三日で行けますよ。ですが、良いのでしょか。ミュールドの足止めを御頼みして」
「茶を御出しするだけです。そこまで警戒なさる必要は無いですよ。貴殿は早く出発してください。これ以上話していては主が不審に思われます」
 確かに出発は早ければ早い程良い。ここでこれ以上話し合っても進展は望めないだろう。
「わかりました。貴方の助言に従います。本日はお世話になりました。またいつか会う時も、よろしくお願いします」
 アラシュはハイルドに惜別の言葉を告げた。
「ええ。私も貴殿にお目にかかるのを楽しみにしています」
 ハイルドの返答を背に、アラシュは裏の納屋に止めたオルを連れ出した。芋虫は小屋近辺に遍在している。心無しか、オルも怯えているようだ。
「すまないが、三日間、走り続けてもらうぞ」
 アラシュはオルの巨体に小さく声をかけ、それに跨がった。

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あきゅろす。
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