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残る爪痕 血脈の果て (薩摩和菓子)完
「直線」
入り口からの光が届かなくなり、闇の手が間近に迫っていた。後ろに背負った背嚢から携帯型のアセチレンランプを取り出す。スクリューバルブを緩め、水滴を炭化カルシウムの塊に落とした。直に容器が反応で仄かに暖かくなり、容器に充満したアセチレンが火口から漏れるスースーという音が聞こえた。ランプを左手に移し、開いた右手でマッチを擦り、火口に近づける。穏やかに炎が現れ、火口の手前に取り付けられた反射鏡で前方が満遍なく照らされた。これで光源の心配は要らないだろう。
左手にランプを掲げたまま、洞窟を奥へと進んでいった。一口に洞窟といっても、ここは人口の空間だった。道は曲がる事無く真っ直ぐ続いており、排水の為か入り口側からは少し上り坂になっている。しかしその道を囲う壁面は人口とも自然物とも判別がつかないような奇怪な形状をしていた。数多の多角形のみが不規則に織り成す凹凸だけで構成されているのである。まるでこの世の物とは思えない程に鋭利な物体を用いてカッティングを施したようだった。その形状が光源を反射し、道の先以外から無数の光る目で監視されているような緊張感が背筋を走った。
恒常的な気温と容器から放たれる熱で、外の寒気に晒されていた時とは対照的に暖かい。寧ろ暑く感じる。空いていた右手の手袋を口で押さえて外し、ランプを右手に移して左手も同じようにする。ついでに被っていた帽子も脱ぐ。脱いだ衣類は無造作に外套のポケットに突っ込んでおく。すると暑苦しさは一通り消え去った。
どれほど経った頃だろうか、音の反響が遅れて帰ってくるようになった。どうやら開けた空間に出たようだ。しかも中央部分に向かって傾斜している。空間にあるくぼみの中程まで移動し、辺りをランプでつぶさに照らす。
今彼がいるのは背丈の六倍ほどもありそうな空間で、大まかには円形だった。今までの道と同じく多面体のみで構成されていたが、ここの構成は秩序だっている。宝飾店に並ぶダイヤモンドのような形状。いわゆるブリリアントカットいう研磨方式だろうか。
空間そのものの形状にも目を見張るものがありながら、その壁面には更に異様な物体があった。
蔦のように壁面を伝う十本の直線。全ての直線は同じ長さで、背丈の二倍ほど。五本ずつが一点で交わり、一対の手のようにも見える。二つの交点には金属光沢を放つ輪があった。直線はそれで束ねられているのだろう。
外套の右ポケットから案内書を取り出す。王族の砦についてのページを開くが、そこには記述は無い。ただ『爪。詳しい事はハイルドに聞いて下さい。』とだけあった。要は他人任せという事である。
専門的な知識は無いが、その場に佇み、自身の目で『爪』を観察する。
全ての直線は空間の上に向かっていくにつれて細くなっている。定間隔に節があり、そこだけが出っ張っている。それぞれの直線の節の数を数える。九本の直線には節が四つあるが、残った一本は他より若干短く、節が三つしかなかった。どうやら先端部分が欠落しているらしい。何故だろうか。気になるが、この疑問はハイルドに聞くまで考えるのはよそう。『下手の考え、休むが似たり』である。
もう少し分かる事は無いか。二本の輪に目を転じると、そこに何かが彫られてあるのが見えた。しかし彫りが薄く、この場からは詳しく見る事が出来ない。
アラシュは足を踏み出した。遠くて見えない。ならば、近付けば見える。当たり前だ。彼が二つの輪の内の一つに近付いたのは当然の行いだった。
しかし彼が人丈分程進んだ途端、目の前に制止が入った。
頭上から一閃が振り下ろされる。思わず仰け反る。弛緩していた危機感が絶叫を上げる。暗転する視界。
気が付くと彼は後ろに倒れていた。心臓がバクバクと脈打ち、体中を冷や汗が伝う。
視線の先、そう遠くない場所。一本の爪が反射したランプの光から浮き出されていた。その切っ先は彼を微塵も外さない。これがアラシュに向かって振り下ろされたのだと理解するまでに幾程か経った。
視界の左側が赤い時雨で汚れた。
額が切られたという事に気が付いた。
爪に殺意があるのだろうか。信じられなかった。
爪に殺意がある。受け入れた。少なくとも、彼に危害を加えたのが爪であることを。
彼はそのまま動かなかった。動いていない間なら、爪は動かなかったから。
次に彼は姿勢を維持しながら、呼吸が止まっていた事を気付き、口を開ける。暖かい空気が体の奥、隅々まで届く。直ぐにそれを吐き出す。それを繰り返す内に頭に血が巡るようになってきた。思考も晴れてくる。
改めて爪を見る。爪は節で曲がっていた。輪に固定されたままである。そして、彼が今壁から背丈二つ分離れている事に気付いた。爪は今以上彼に近づけないのである。
分かってみれば、彼は対応が不可能な程に追い込まれている訳ではなかった。ただ後退すれば良い。実際にそうやり、爪の切っ先から五歩ぶん離れた。爪は蛇のように俊敏で底知れない。だが、あの輪の束縛から逃れる事は出来ないのだった。
可笑しかった。滑稽だった。愉快だった。緊張はやってきた時と同じ位に突拍子も無く去ってしまう。去ってしまった後の空白は場違いな程の高揚感に乗っ取られる。
洞窟を揺るがしそうな大声で、彼は笑った。はらわたが避けるそうな程笑った。
空白に現実感が戻ってくるまで、彼はただ笑っていた。

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