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残る爪痕 血脈の果て (薩摩和菓子)完
「回顧」
黄昏が近づいてきた頃合いだろうか。主が外出の用意を始めた。
「支度をするから席を外してくれ。あと、頑丈で細長い、そうだな、掌二つ分の箱を頼む。中に綿でも詰めてくれ。少々繊細なモノを入れるからな」
トレラテは主に一礼し、控えの間に移った。主は着替えの際に人目が入るのを極端に嫌う。二十五年前からだった。
とにかく、主人の望み通りの箱を探さないといけない。トレラテは土蔵へ向かった。控えの間が面している廊下を端まで行き、階段で一階まで降りる。途中ヤタ鳥の照り焼きの匂いがした。下女中が調理する夕食である。主は嫌がりそうだと思ったが、そのまま下へ下る。何故主が鳥料理を嫌うのかは分からないが、だからといって好き嫌いは良くない。たまには厭でも食べさせるべきなのだ。
一階に着き、中庭に出る。中庭では主が昔好きだった柊が傾きかけた陽に茜色に照らされていた。その隣に城壁に匹敵する程頑丈な土蔵がある。日用品は城内の収納スペースに納まっているが、書物や用途の限られたものは土蔵に入れてあるのだった。上女中として、トレラテは土蔵の鍵を持っていた。それを懐から取り出し、錠前に差し込む。かなり昔からある土蔵なので錆びてはいるが、役割を果たす事に支障が出る程老朽化した訳では無い。幾度か力を込めると、錠が開いた。重厚な扉を押し、中に入る。
土蔵は書物に付着する黴の臭いで満たされていた。鼻を片手で押さえながら容器の棚に移動する。容器は嵩張るので蔵の空間を大きく占有しており、容易く見つかった。その中から様々な箱を取り出しては、戻す、を繰り返す。
単純な作業を続けている内に主人の要望に沿えるような箱が見つかった。木製の、小さくて細長い箱。長さは掌二つ分。中には既に綿が詰めてある。トレラテにはこの箱を二十五年前にも見た覚えがあった。
二十五年前。トレラテはその日の事を一度たりとも忘れた事は無い。ミュールドが『豹変した』日の事を。

朝から冷たい雨が降っていた。引く気配も見せない。
主は当時、州主の跡継ぎとして学問に励んでいた。民俗学、ノメイル史、地政学、気象学、生物学。州を治める者として恥ずかしくない程度の学問を修めようと彼は必死だった。私はその傍で彼の補佐をする。
机の横から覗き込むと、主の横顔にはまだ少年のような幼さが残っていた。私にとって傍にいるミュールド=ニルシュトは主であるが、同時に弟のようでもあった。
主が十歳の時、私は彼の上女中になった。奉公を始めた当時の私は十五歳。上女中は主の身の回りの世話や接客をする者。ヒーラッフル家の娘として、結婚前の礼儀作法や家事の見習いとしての奉公である。今では主が二十四歳、私は二十九歳になってしまった。既にどこかに嫁ぎ、女中の任を辞している筈だった。
しかし私はどこにも嫁がず、主ミュールド=ニルシュトの女中を続けた。それは私が二十の時、家督メッケルン=ヒーラッフルがノメイルの国籍だけでなく貿易先であるネーズル王国の国籍も取得していた事がノメイル政府に露見し、家督を相続する前にノメイル国籍を喪失したからである。これは事実上のヒーラッフル家滅亡であった。私は良家の娘として嫁ぐ事は永遠に無くなったのである。その知らせは城内で受けたが、私は別段悲観してはいなかった。別にヒーラッフル家が滅亡しようとも家内の者は誰一人として死ぬ訳ではない。家族はただ裕福な生活を手放すだけなのである。家督メッケルンの処罰もノメイルへの追放だけだった。今まで多額の納税をしてきたメッケルンを厳しく処罰する事は出来なかったのだろう。それに元より私は誰にも嫁ぐつもりは無く、今の生活に満足していたのだった。
広々とした書斎を万年筆の紙面を擦る音が占拠していた。快い音は途切れる事無く続く。私は嵩張る書籍を出し入れしながら、ペン先と紙の奏でる音に聞き入っていた。
筆記の音が破られたのは日が傾き始めた時分。
小さいながら荘厳なノックの音がしたのだった。
「どうぞ」
 若かりし日の主は訪問者の入室を促す。
「どうだ。学問の方は」
 訪問者は主の父。ノスタリオール=ニルシュトだった。痩身痩躯の老体を質素なノース民族装束に包んでいる。少し左胸の辺りが膨らんでいるが、何か内ポケットに詰め込んでいるのだろうか。
「ええ。トレラテの手助けもあって、はかどりました」
 息子の肯定的な返事に、ノスタリオールは口元を緩める。
「そうか」
 呟いた後、彼は何かを逡巡する素振りを見せたが、直ぐに毅然さを取り戻した。
「トレラテ。席を外してくれ」
 ノスタリオールが命令した。彼が息子と二人きりでの会談を望むのはいつもの事だった。さして疑問に思わず控えの間に移動する。
 しかし退き際、私は異変を察知した。何か不穏なものを感じるのだ。女の第六感というものではなかった。寧ろ防衛本能に近い部分が刺激される。
 今日のノスタリオールは変だ。
 どこが違うのだろうか。今までのノスタリオールに関する記憶と照合する。
 彼の服装だ。
 今までは例外無く襟の高い服を着ていたのに、今日着ている民族衣装は襟が低いのだ。
それに微かな臭い。
腐臭。内臓を晒した鳩に群がる蠅。蛆。何故かそのような情景が思い起こされた。
控えの間と書斎を繋ぐドアに急いで、しかし可能な限り静かに駆け寄る。蝶番の軋みに注意しながらドアを僅かに開け、書斎を覗き見た。
机に向かう主の後ろでノスタリオールは勉強を見てやっていた。ドアからは二人の背中しか見えないが、異変は無いようである。寧ろ仲睦まじく感じるぐらいだった。
取り越し苦労だったか。安堵してドアを閉めようとした時、ノスタリオールの動きに変化があった。彼の左肘が横に張り出され、右肘は大きく曲がり、左右に動く。襟の左端が上下した。襟の動きがしばらく続くと、今度は両肘が左右対称に揺れる。左の内ポケットから何かを取り出し、その何かを胸の前で弄っているのだと分かった。しばらくして、左腕が垂れる。手には木製の細長い箱。中身が気になったが、きっと未だ下ろされていない右手にあるのだろう。それをどうするのだろうか。当ても無く考えている間に、目の前で彼は奇怪な挙動をとった。
右膝を主が座る椅子の背凭れに寄せると、そのまま重心を前に傾け、背凭れを押し出したのだ。主の腹は机の縁に叩き付けられ、椅子と机の板挟みになる。当然主は身動きが取れない。
ノスタリオールの上体がもがこうとする主に覆い被さり、声を上げようとする口は箱を持ったままの左腕で塞ぐ。主の動きは完全に固定されてしまった。突然の恐怖感に襲われて戦慄く主の首筋に、ノスタリオールは肩の動きで右手を押し付ける。
悲痛な絶叫がノスタリオールの腕から漏れる。しかし彼の声を聞きつける者はいなかった。彼を押さえ込むノスタリオールと、ドアの後ろに立つトレラテ以外は。そしてトレラテは、ただ立ち竦んでいた。ノスタリオールの背から放たれる執念が、人ならぬ異臭、父親ならぬ行動が、トレラテから主を守ろうという思考を奪っていた。
何も出来ないまま、時は過ぎてゆく。いつの間にか書斎は静寂で包まれていった。ノスタリオールは上体を主から離し、束縛を解く。しかし主は今まで自身を拘束したノスタリオールに対して全く反抗しない。ただノスタリオールに振り返り、自身の両手を凝視しただけだった。
「ミュールド」
 反応の希薄な主に、ノスタリオールは語りかける。主は焦点の定まらない視点をノスタリオールに向けた。
「お前はニルシュト家の家督となる資格を得た。そして今、お前に家督を引き継がせよう。晴れてお前はノースの州主となるのだ」
落ちる雫の冷たさは増しても、雨が降り止む事は無かった。

二十年前の記憶が朧気かつ鮮明に思い出された。
多くの物事がとんとん拍子に、不可思議に動動き出したのはその日の直後だった。
翌日。ノスタリオール=ニルシュトはニルシュト家家督、ノース州主としての権利を全て主に引き継ぐことを書に記し、一家内に公言する。その日主は襟の高い服を着ていた。以降も例外なく服の襟は高かった。あの日以前ノスタリオールのようでもあった。
二日後。主は従兄妹(といえど祖先はニルシュト家と大差無い)ネソリア=ウェルヴァウセルを伴侶に迎え入れる。それまで『近親である』という至極真っ当な理由で避けていたし、相手側も同じだった筈なのに。あの日を境に両者の意識は変わってしまった。
十ヵ月後。主とネソリアの間に男児が生まれ、ネソリアは亡くなる。生まれた子供は後にアーリュエンと名付けられ、五歳という幼年で逃走した。
一年後。ノスタリオールは自害する。理由は不明のまま今に至っていた。
唐突に探究心が頭をもたげ、今手にしている箱を詳らかに観察する。箱そのものは強度も耐耗性も高い欅の心材を削り出した物に、刻み組み接ぎなどあらゆる手を尽くして補強がされていた。問題は中の綿である。元々白い綿の中央部分が褐色に汚れていた。鼻から片手を外して臭いを嗅ぐと、あの時のノスタリオールの腐臭がした。間違いない。やはりこれは二十五年前に彼が使った木箱だ。
汚れの奥に何か黒い物が入っているのを見つけた。
元々入っていた物の破片だろうか。
疑問に思い、綿を指で開く。そこにあったのはカラカラに乾いた夥しい数の芋虫の屍骸だった。

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あきゅろす。
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