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残る爪痕 血脈の果て (薩摩和菓子)完
「勧誘」
彼は左手に手綱を巻き付けながら、おもむろに右手を軍服のポケットに突っ込んだ。丹念に折り畳まれたきめの細かい紙の滑らかな感触が返ってくる。彼がこの深淵へと続く森に、半ば迷い込む原因が彼の手の中に握り締められていた。
本人曰く、「トース観光案内書」。
あるガゼルの少女と小一時間程和解の言葉を交わした帰りの事。トレラテと名乗る女側近に引き止められ、無理矢理これを渡されたのだった。
アラシュの父親であるミュールド=ニルシュト。その男に仕える側近のトレラテが、彼に何を渡すというのだろうか。疑惑に駆られ、手元に押し付けられたものに視線を向ける。
それは綴じられた一冊の本だった。しかも観光案内所と銘打ってある。
ふざけた話と一蹴する事も出来た。彼は前回の傭兵稼業で、借りていたオルを失うという莫大な損失を犯していたのだ。その損失分を直ぐに稼がないといけない。トースで二日も潰したくなかった。しかし紙面に目を走らす内に、自分でも奇妙な程に引き付けられるスポットを見つけた。
「トース内で暮らす唯一の人間の家」
彼は思わず口に出していた。そして彼の失言を、そばで窺っていたトレラテが聞き逃しはしなかった。
「それは知る人ぞ知る比較神話学者、スハイレル=クラルムントの住まいでございます」
『知る人ぞ知る』とだけあって、教養の無い彼が一度とも耳にした事の無い名前だった。そもそも『比較神話学』という学問すら全くの初耳である。
「現在彼はガゼル神話について重点的に調べており、この案内書にある署名を提示すれば彼と会談する事が出来ます」
その署名というのがミュールドのサインだった。
「ミュールド=ニルシュト氏は彼のスポンサーなのです」
取り繕った様子がありありと見える口調で、主より少し年を取って見える女側近は間髪入れず喋り続ける。
理由は未だ不明瞭だが、彼をこの「観光」に行かせるという意思は本当のように見えた。
女側近がいくら肩書きについて述べようと、彼はスハイレル=クラルムントの人となりを垣間見る事は出来なかった。しかし彼は決断した。
女側近の、彼には無用な喋りを遮り、明日会いに出発すると返事しておいた。そのときのトレラテの表情を彼は見逃さなかった。安堵と後悔。その原因を図る事はできなかったが、何かの前兆を感じた。今でもその表情が頭の片隅に陣取り、疑問を投げ掛けていた。
これはミュールドの引き金ではないか、と。
元々ミュールドは彼とは全く別の価値観で動いていた。腹の中など窺い知る事も出来ない。
この不可解な冊子も、策略の一端なのかもしれない。しかしトースの森を散策してもあの男の利益になるとは全く思えなかった。

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