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残る爪痕 血脈の果て (薩摩和菓子)完
「濃霧」
 濃霧の中、アラシュは一人だった。オルの上で揺すられていようともそれは全く変わらない。そして、今までも、これからも、変わらない。
彼が数日かけ、ノメイルの首都ソノスから遥々ノースまで訪ねた翌日の事だった。十月も下旬に入っている。オルの体熱を僅かに感じながらの道すがら、トースの外気は極地用正式装備越しに、彼の肌を刺した。使い勝手が良いから、何かと融通が利くからと軍服を選んだが、そのような理由だけで服を選ぶべきではなかったと自身の判断を胸の内で叱責する。
身の凍えるような寒さの中、しかし瞬きの間の数瞬を除けば意思に反して目に入る、鬱蒼と茂る常緑林はあらゆる気候からも隔離されていた。豊満な緑で装い、濃霧と合わさって視界に立ちはだかる。限られた距離をいくら見通せど、判別出来るのは木々が水の粒子に落とす大小の直立した影ばかりだった。
足元を、歩行するオルの巨体越しに見下ろすと、自然界のトラバサミ原が大口を開けていた。これに足を持っていかれ、オルが転倒すれば、上に乗っている彼だって道連れになる。思い返せば、借りてから数日間、彼はこのオルを一度と名前で呼んだ事が無かった。それ所か名前を付けてすらいなかった。このオルのもどかしい程のたどたどしさはそれ故なのかもしれない。彼はオル貸しにも、名前を付けておかないと後々困る、と言い含められていた。結局今まで決めずじまいだったのだが、それがいけなかったらしい。名前を決めておけば良かったと後悔し、それに途方も無い諦めが混ざる。彼は今までモノに名前を付けた事が無かったのだ。
自分の現在地を風景から把握する事はほとんど出来ない。今までの過程からしか今の居場所を導き出す事は出来ないだろう。それを怠れば、均質に木々が延々と生え続けているこの森から出る事はおろか、歩を進める事すら危うくなる。果てには自身と森の境界線すら、紛れ、消えていってしまう。自分が森であり、森が自分であるように思えてくるのだ。そして今、自身が吸っている澱みの無い清澄な空気が森と自身の間の境界をじわじわと壊していくのを感じる。この、見もしない木々に吸われ、吐き出された空気には、全ての生物に普遍的に存在する汚れや醜さを含んで 存在しているのだろうか。だからこそ澱み無く清澄で、ヒトと同化出来るのだろうか。自問しても答えは出なかった。
 ここに留まってはいけない。自身の目的ばかりか存在すら見失う。
彼はオルの手綱を強引に引き、自身の気を無理矢理引き締めた。オルもそれに反応して速度を上げる。しかし依然果てしない普遍が彼の視界を通り過ぎていき、またやってきて、依然留まる。
最初の目的地まで、この孤独と忘我の交戦は止まないだろう、と彼は確信した。

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あきゅろす。
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