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習作(kankisis)

 朝、起きると彼は戦利品の散らかる部屋を出、誰も目に入らず、階段を下りた。明かりの点いていない居間はがらんとしていた。家族はそれぞれ、もうどこかへ出掛けてしまっているようだった。時計の針は三時を指している。
冷蔵庫を開けた。異常な光景が目に入ると同時に、腐臭が彼の鼻に侵入した。彼は顔をしかめた。「何だよ」そう呟くと、冷蔵庫は開け放しにしてトイレへ向かった。トイレの電気は切れていた。仕方がないので戸を開いたまま用を済ませ、水を流そうとした。しかし水は流れず、排泄物は便器に留まった。
暫く立ち尽くし、彼は床に埃が溜まっている事に気が付いた。急いで居間に戻り、何も考えずに電話の受話器を持ち上げた。何の音も聞こえて来なかった。彼はここに至って初めて異変を感じ取った。真っ先に家族の事を考えた。テーブルに置いてある自分の携帯電話を手に取り、但しそれは開かずに、家中を歩き回った。本当に屋内に誰もいないか、何度もしつこく確かめた後、居間に戻って携帯電話を開いた。電池が切れている事を確認すると、彼は外に出た。通りにも人はいなかった。
「誰か!」声は虚しさを乗せてどこかへ飛んで行ってしまった。太陽は低く姿勢を構えていた。彼は誰も見つからぬ町を唯一人、視線を感じつつ彷徨った。どこからともなく漂って来る臭気に眉を顰めつつ、彼は家の周囲をぐるりと周り、それから名残惜し気に、少しずつ自分の根拠から離れて行った。但し自らの普段の行動範囲からは、決して外れようとはしなかった。
 コンビニエンスストアを自動ドア越しに覗いてみる。自動ドア自体はその前でいくら踏ん張ろうとも開かなかったが、内部の惨状は視覚のみの情報でも充分伝わった。彼は店内に足を踏み入れる事を諦めた。
 なぜ、他の人間はその存在を現さないのだろうか、と彼は考えた。時間の流れは何処かに留まってしまっているようだった。太陽は家を飛び出してから全く角度を変えていなかった。この季節にしては不自然な程に暑さはなく、突然冬になったかのようだった。何もわからない。彼は出くわす家々に近づきこそしたが、しかし窓を戦々恐々としてちらちら覗くだけで、その中に入ろうなどとは微塵も考えなかった。
 彼は突発的に立ち止まり、その場でうずくまった。皆、どこへ行ったのだろうか? 人々は忽然と姿を消したままであった。鉄道は無論止まっており、駅のホームから一向に動き出す気配を見せなかった。昨日は何もなかったか……? そう、何もなかった。普段と変わらなかった。異変はなかった。彼は元来、異変などと言う物には無縁であった。
 思考は一旦取り下げられ、彼は再び歩き出した。駅と逆方向に歩いた。そうして自分の家の前をゆっくりと通り過ぎて、以前の学校へと動いた。そこは他と同じく妙に寒く、窓は全て割れていて虚ろな口を開いていた。敷地に入る門は錆び付き、触れるとその度に少しずつ錆が剥がれ落ちて来た。無理矢理に門を開けようとして、それはひどく大きな音を立てて彼を驚かせた。敷地に入ると、遂に門扉は派手に倒れてしまった。
 彼は真っ直ぐに校舎を見上げた。校舎は古びて威圧感を覚えさせた。外壁中の蔦がひび割れに食い込んでそれを押し広げようと頑張っていた。彼は昔の習慣から、正面の入り口からは入らずに、校舎の壁に沿って進んだ。植えられた銀杏の木々の葉は全て落ち、地面の葉は腐っていた。黴が生えていた。木々はそれぞれ微かに傾いていた。
 彼は生徒用の通用口から土足のままで入った。中は黴臭く、明かりが割れた窓から入り込む光だけだった為に薄暗かった。階段は上らずに、ほぼ真っ暗な廊下を歩いた。事務室に何かあるだろうか。彼は事務室の扉を開けたが、大量に飛び回る虫を目撃してすぐさま扉を閉めた。虫が二、三匹出てきたのを見、その激しい羽音を聞き、堪えきれず彼は正面口から飛び出した。目の端に一瞬映った木々は完全に倒れていた。太陽は知らぬ間に天頂に辿り着いていた。
 太陽は出ていたが、空の殆どは分厚い雲が覆っていた。風は相変わらず少しもなく、空気は流れる事を知らなかった。陽は出ているが、辺りはより一層暗くなった。
 体力を削るのではなく精神を直接えぐり取るような冷え込みに、彼は心身を振るわせた。体の質量が減少するように感じた。彼はあてもなくふらふらと俯きながら歩き出したが、次に顔を上げた時には太陽は消え去っていた。かわりに月が出ていたが、それは妙に明るく、生温い風を地に送っていた。その風は生暖かいだけではなく、吐き気を催すような臭気を持っていた。彼はすぐに鼻を押さえ、口を開いたが、喉が乾燥して呼吸どころではなかった。踏み締める地面もおかしな程熱く、彼は駆けた。息が荒くなり、そして喉はそれまで以上に乾ききった。太陽が出ていた時と比べて、月によって周囲はほんの僅か明るくなったようだった。
 彼は見知らぬ土地にいた。
 皆消えた? ここには自分しかいないのか? 「ああ!」声が漏れた。彼は気付かなかったが、実は置き去りにされただけで、他が消えたのではなかった。むしろ彼が消された。この場合の神はその事を唯一知っていたが、おそらくその口には真実は含まれない。彼は知らず、また知られない。彼は気付かず、また気付かれない。


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あきゅろす。
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