秒針の嘲笑(消火器)完 U-1 吹く風に、少し冷気が混じってきた。 私はさっさと帰って暖まってしまおうと、このところ急に疲れるのが早くなった足を急がせた。 人通りのあまり無い道を、時々走ってくるトラックのライトが派手に照らす。轟音が過ぎると、再び、静けさが戻る。そろそろ点けられるべき街灯は、殆どが切れているようだった。 閃光と轟音と静寂の繰り返しを幾度かやり過ごした後で、ふと思い出して鞄を探った。 黒いぼろぼろの牛革の感触を探り当て、引っ張り出す。 やはり、「九月」の見開きの今日の枠には、赤いボールペンで丸が付けられていた。 私は、取り敢えず花を買って帰ることにした。 手帳を鞄のポケットに慎重に仕舞い込む。頭上で微かにチカチカと点滅する灯に、夜の虫が一匹纏わりついていた。 私が何かを持ち帰ることは滅多にない。彼女は驚くだろう。 少し遠回りにはなるが、いつも曲がる道より二筋早く道を折れた。 大部分の店は既にシャッターを下ろしていたので、花屋が開いていたときはほっとした。 店の入り口の花は仕舞われていたが、赤い薔薇とガーベラの小振りなブーケは、まだ何かの長い枝の飾りに結わえたままになっていた。 店の明かりは点いているのに、人気が無い。 奥に声を掛けた。 「あのー…」 「あ、いらっしゃいませ」 いそいそと出て来たのは、小柄な女、というより、この風貌は少女と呼んでも良さそうである。 染めていない長髪を後ろ手に縛り直しながら、やや小走りにやって来た。 「花束を一つ、作って貰いたいんですが」 「はい、どのように致しましょう。」 脳裏に、店先に飾ってあったブーケが浮かぶ。しかし、その時、私の足元の白い花に気付いた。その白が無意識に彼女の非現実的な白と重なる。華やかなものよりも、彼女にはこちらのほうがずっと似合っているという気がした。 「こいつが、…此れがいい。此の花でお願いします。」 「他には」 「此れだけでいいです」 私は、財布から大分よれた千円札を三枚出して、カウンターに置いた。 店員が不審そうに、ちらと私の顔を窺った。 「此れで、買えるだけお願いします。」 こんな客は見たことがないに違いない。きっと、後にも先にも、来ることはないだろう。店員の女は、暫く黙って立ち尽くしていた。 そして、数秒の後に慌てて返事をし、私に包装紙を選ぶように言った。 店内の花は、皆、ひっそりと息を潜めているようだった。 女が花を選び、片手に抱えていく、忙しない微かな音だけが聞こえた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |