秒針の嘲笑(消火器)完 T-3 気が付けば、僕はすっかり聴き入っていた。 弾く者、聴く者の息遣いを捉えたように、自然と呼吸がメロディーラインについていく。 一時間くらい弾いていたようにも感じた。しかし、テーブルに長々と落ちるティーカップの影は大して動いておらず、実際は五分と経っていなかったのだろう。 窓枠に紋白蝶が留まっていたが、演奏が終わる迄、僅かに二、三度羽を開閉させたのみで、あとはピクリとも動かなかった。 曲は、夢から醒めるようにして、急に終わった。指が鍵盤を離れた。今度は、白い鳩が飛び立つようだと思った。 「今はこれくらいしか弾けなくて」 静けさを取り戻した空間に、未由紀さんの澄んだ声が響く。やっと我に返って、夢中で拍手をした。 「いいえ、とても素敵でした」 紋切り型の文句なのかもしれない。しかし、それは、今の僕の心からの言葉だった。 「何処かの民謡みたいでしたけど、…何と云う曲なんですか」 問うと、未由紀さんは静かに首を振り、目を伏せた。 昔、知り合いが彼女に書いてくれた、ただ一つの曲だと言う。 「本当は歌詞もあるけど」 「歌わないんですか」 「喉を傷めるから、歌はあまりやってはいけないとお医者様から言われているの。でも、楽譜は棄ててはいないのよ」 唇が柔らかい笑みを形作る。 彼女の喉元にそれとなく目を遣ると、思った通り、それは白くほっそりとしていて、細い骨が左右一対浮き出ていた。毎日庭に出ている割には、随分と色が白い。 少し浮世離れした人だと思っていたが、僕はまた、この人が何なのかが分からなくなる。 あまり身体が丈夫なようには元々見えなかった。しかし、彼女は現に此の家でピアノを弾き、庭を手入れしながら独りで暮らしているのだ。 収入はあるのだろうか。誰か、援助をしてくれるような人がいるのだろうか。それとも、僕が来ない午前中は、勤めているのだろうか。 未由紀さんの年齢は、よく判らない。子供っぽいあどけない笑顔を見せる時もあれば、三十代半ばに見える時もあった。 しかし、歳が幾つであろうと、定職を持っていようと、彼女の住む此の場所には生活感というものがまるで無い。 「御馳走様でした」 空になったティーカップを置いた。未由紀さんは黙ってそれを下げたが、その姿を目で追うと、流しに物が無いことに気付いた。食器用洗剤と小さなスポンジが隅に転がっているほかは、水が撥ねた痕すら見当たらない。壁のタイルも、油汚れなどとは全くもって無縁のようだった。 「こんなものしか出せなくて、ごめんなさいね」 未由紀さんの、温度の無い、いつもの声が聞こえた。 「いいえ、いいんです。美味しいお茶御馳走になったし、お土産まで戴いてしまって」 彼女が頭上にある造り付けの戸棚を開けた。 殆ど食器は入っていなかった。 部屋の中を、一瞬、小さな影が過ぎた。外に目を向けると、一羽の燕が視界の端に映った。 「本当はね、あの曲は」 いつの間にか未由紀さんが隣に来ていた。 「歌が付いてこその曲なの。」 西の空は綺麗に晴れて、朱く染まり始めていたが、東の方角には薄く雲がかかっている。 「どちらかと言えば、歌が無いと意味が無いくらいの、そういう曲なのよ」 「誰かに歌って貰ったこと、とかは」 「作ってくれた人よ。…もう、逢えないけどね。」 彼女の瞳に、目の前の景色は映っていなかった。 庭でも、空でも、僕でもなく、彼女の記憶の、何処か遠い一点を見詰めていた。 「でも、私が弾かないといけないの。弾いて貰えない曲は死んでいるのと同じだから」 「…ピアノ、そんなに好きですか」 「ピアノじゃないのよ。私は、あの曲が好きなだけ」 「まだ、弾き続けますか」 そう言った声は、自分でもびっくりするくらいに掠れていた。 「そうね。…どうしても、此ればっかりは、ね。」 何の音も聞こえなかった。 家の前の道路も、今は車の流れが途絶えているらしい。風すら吹かないので、一本の草花も揺れなかった。 窓の桟の蝶は、いなくなっていた。 沈黙を破ったのは、未由紀さんだった。 「…ごめんなさいね、こんな事急に聞かせて。私個人の事情なのに」 初めて聴く、少し上擦った声音で、何かを焦るようにキッチンに消えた。 「いいんですよ。」 少しでも未由紀さんの話が聞けたから、という台詞は、嘘臭く聞こえるのだろうか。 「僕、そろそろ帰ります。日も落ちてきましたし」 「ああ、もうそんな時間だったの。じゃあ、はい。」 ずっしりと重い紙袋を渡される。中を覗くと、ビスケットの入った袋と、クリーム色の缶が見えた。 「あの、此の缶、」 「今日飲んだあれよ。あのハーブティー。」 「…有難うございます。」 鞄を右肩に掛けて、紙袋を左手に持ち、一礼した。 間近で目にする未由紀さんは、僕が思っていたよりも小柄で、そしてますます浮世離れして見えた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |