秒針の嘲笑(消火器)完 T-1 「あら、いたの」 いつでも、その人は、そんな言葉で僕を迎える。 別に驚いているわけではないし、足音は聞こえている筈だ。しかし僕が姿を見せると、決まって未由紀さんは少し眼を見張る様にして、こちらに視線を向ける。 そして、僕が行く時間帯には、鉢植えの世話をしているのが常だった。 僕の知らないその花は、花びらの縁が僅かに茶色くなり始めていたが、まだ萎びてはいなかった。上手くいけば明後日までは保つだろうと思った。 「今日は早く来ると思ってたの」 如雨露を置き、手を拭きながら、音も無く立ち上がった。 きちんと横に立って計ってはいないけれど、上背は僕より数センチ低いくらいだろうか。 そういえば、通学路沿いのこの家には何度も寄っているのに、未由紀さんに近付いたことは一度も無い。 そうする必要が無かったからに過ぎないけれど、僕はいつも道に面したテラスの横で、鞄も置かずに、ただぼんやりと立っているのだった。 上がっていってもいいのよ、と、幾度か声を掛けられたが、僕はいつも黙って首を横に振った。すると、未由紀さんは、困り笑いのような何とも曖昧な表情で、「そう」と頷くのだ。まるで自分を納得させでもするかのようだと、それを目にする度に思う。 「なんで、今日は早いと思ったんですか」 「直感」 未由紀さんがふふと笑い、僕を手招きした。 「今日はお茶を持って帰って」 「あ、でも、僕は」 「いいの。上がりなさい」 未由紀さんが奥に消える。初夏の柔らかい風がざわざわと目の前のローズマリーを揺らした。 僕はそこで初めて、彼女の庭に足を踏み入れた。虫なのか草なのか、足下に纏わりつくものがあるが、雑然としているように見えて、土地は意外にきっちりと区切られ、何処に何を植えるかは彼女なりのルールで定められているようだ。 僕にはとても想像の及ばないような法則に従っていることだけは分かる。 重い鞄をやっと肩に掛けて、初めて部屋に上がった。 [次へ#] [戻る] |