爪切り(くれとー)完 ページ:11 よりにもよって今日、女と一ヶ月ぶりに会える日だというのにつまらない妻の我儘に煩わされることになるとは。私は溜息混じりにその言葉を一蹴した。 ――私に理由も無く約束を反故させようというのか、お前は。私はそのような薄情な女を妻にした覚えは無いのだが。 ――いくら罵られても構いません。今日は家に居てください。 ――聞きわけが悪いな。私は出ると言ったら出るぞ。お前がどう私を説得しようとな。 ――ならば、あなたが今日一緒に飲みにゆくお友達の名前と、どのような社会的地位の方なのかを教えてください。 ――いきなり何を訊く。私を疑っているのか。 ――答えてください。 妻は、出会って以来見せたことのないような断固たる口調で言った。縁談の話を言い渡されたとき、上司によりこの妻は気立ての良い大人しい娘と前評判を聞いていたが、会ってみると実際その通りの娘だった。無口すぎるきらいはあったが顔にいつも笑みを絶やさず、私の言うことには従順に従い黙々と家事をこなすような娘であった。そして私の妻になった後も、今まで反抗一つも見せなかった妻が、硬い表情で私に詰め寄っている。私は意表を突かれて咄嗟に何かを言い繕う事も出来ず、呆然と絶句していた。 ――やはり、答えられないのですね。 妻は寂しそうに目を伏せた。 ――本当は、違う場所に行くのでしょう。 ――どうして、そう思う。 ――一つ屋根の下に住んでいるんですもの。あたしは知っているんです。あなたが、いつからかの新月の夜は夜が更けてから帰ってくること。 私には何と言ってよいのかわからなかった。妻の言わんとしているところはわかったが、私はそれを肯定すべきか否定すべきかわからなかったのだ。新月の夜に別の女の元に通っているのは事実である。しかし、そこには妻の思っているような淫らな関係は一切介在していない。私が爪を切ってもらうために対価として切り滓を差し出し、余った時間に女と語らうだけである。判断のつけようがなかった。 私の逡巡を肯定と受け取ったのか、妻は一層傷ついたような顔をした。 ――気付いていました、もう随分前から。あなたの心があたしのところに無いぐらい。ご自分では気付いてなかったでしょうけれど、あなたは時折、誰かを想う様な遠い眼差しをしていましたから。 その包みも誰か女のところに貢ぐ為のものでしょう、と妻は半分確信している風に言った。妻の言葉を聞きながらちらりと戸外を窺うと、刻々と日は地平の裏側へ向かっていた。深い闇はもう街のすぐ傍まで忍び寄っている。空の色は夜の訪れを告げ始めていた。迂闊だった。私は家を出なければいけないのだ。妻の我儘に付き合っている暇などない。 ――ともかく、私は行く。永遠に出て行くと言ってはいないのだ。朝には帰る。 高圧的な口調で言い捨てて踵を返すと、妻は縋り付くように袖にしがみついた。その細腕に似合わない力強さだった。 ――行かないでください。ここにいてください。 ――帰ってくるといっているだろうが。何が不満なのだ。 ――あたしにはあなたが必要なんです。あなたに他の女の元へ行って欲しくないのです。 妻は涙をこぼしながら哀願するように言った。 ――もし、あなたにとってあたしに気に食わない部分があるのならばいくらでも言ってください。あたしはあなたの思うがまま、何でもします。畜生のように扱われても構いません。だから、今日だけは家にいてください。私といてください。 悲痛さを帯びて、妻の声は徐々に叫びのようになっていた。耳の奥を引っかくような、甲高い声だった。無言のまま力づくで振り払っても、妻は意外なほどの力強さを発揮してまた縋り付いてきた。そうこうしている内にも日は容赦なく沈む。妻の瞳は涙に濡れながらも、諦観を覚えず輝いていた。執念の炎が瞳の奥で燃え盛っているようだった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |