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爪切り(くれとー)完
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――いっそのこと、私が座布団を用意しようか。
 口に出して、我ながらいい考えのように思われた。女の瞳が困ったように揺れる。
――いいえ、頂けません。
――見返りを求めている訳ではない。いうなればこれは礼だ。無償で爪を切って貰っているのだからな。別によいであろう。
――無償ではありません。私は爪を頂くだけで十分なのです。
――私だってたまには感謝の気持ちを表したくなるのだ。勝手に用意するだけなのだから、構わないだろう。
――いいえ、駄目です。
 女は頑として首を縦に振らなかった。
――どうしてそこまでかたくなに拒むのだ。
――物を頂くのが嫌なのです。
 理由を訊くと、女は申し訳なさそうに眦を下げた。
――感謝を示したいというそのお言葉は、とてもありがたいものです。ですが、ほんの気まぐれのように私に物を贈るのはおやめくださいませ。もし私が貴方から贈り物を受け取ったとしたら、私と貴方の関係は通りすがりと路傍の爪切りという刹那的な関係から抜け出してしまいます。かといって、いつ切れてもおかしくはない縁である点は変わりません。私はそのような中途半端な関係が嫌いなのでございます。 
――お前は爪を持っていくだろう。物を貰うのと爪を貰うのはそう大差ないはずだ。
――切りとった爪は貴方方には無用の物ですので、問題はないのです。誰も、自らの垢をこすり落とした銭湯に物など贈りますまい。考え直してくださいませ。
 やめてほしい、と懇願する女を無下にしようとは露程も思わないが、素直に引き下がるのは躊躇われた。寒さで真っ赤に染まった女の足が目に浮かんだ。
――だが、私はお前に物を贈りたい。どうすればいいだろうな。
――私は受け取れません。貴方は気の赴くまま私の元へ爪を切りにやってくるだけなのですから。どうしてもというのならば、生涯見捨てないとでも約束してくださいませ。
 黙って貰った方が得だろうに、随分と極論に走るものだ。女には譲れない部分があるのか、柔らかい口調ながらもその言葉にははっきりとした拒絶が込められている。取りつく島もないほどに、女の態度はきっぱりしていた。
――では、約束しようか。
 私が言うと、女は虚をつかれたようにまじまじと見つめかえしてきた。次第にその顔にはいぶかしみが広がっていく。
――どういうことですか。
――言葉通りだ。
――お戯れを。お止しになってください。
――止めるものか。
 端的に答えると、女は目を伏せた。実際、私はこの女と生涯を通してつきあってもいいと思ったのだ。私を諦めさせようとした女の言葉が、今後とも欠かすことなく新月の夜女の元に向かおうとしている私の心を自覚させた。
 女はやがて顔を上げると、その黒曜石の瞳で私の瞳を覗き込んだ。
――私は本気でございます。
 女の白い顔は能面のようで、何の表情も移していない。その瞳は私を映しているようでありながら、底も知れぬ深淵の闇を抱えているようでもあった。以前にも見たことのある瞳だった。私はその純粋な黒に吸い込まれそうな錯覚に襲われながらも、臆せずに答えた。
――私だって本気だ。どうしたらお前は私を信じる。
 女は黙考した後に、怖いぐらい真剣に言った。
――その瞳は嘘を吐いているようには見えません。信じましょう。ただし、一つだけ確認しておきます。その言葉を翻すおつもりはありませんね。
――勿論だ。
――そのお言葉、違えないでください。
 女の言葉は厳粛な響きを持っていた。裁きの場で生か死かの宣告を下される瞬間のような、何か決定的な区切りを突けるような一言だった。まるで、その言葉で区切られた過去と未来が全く別の末路へと繋がっているような予感が、唐突に閃くような厳粛さだった。その厳粛さに引きずられるように私の気も引き締まり、知らず知らずのうちに息を詰めていた。
――本当はうれしゅうございました。
 俯いた女の口元は優しい笑みに彩られ、頬には薄く朱がさしていた。女がここまで人間らしい表情をするのを初めて見たかもしれない、と私は思った。実際、女が頬を赤らめて俯く様子はまるで年頃の少女のようだった。普段の幽玄な姿とはまた違った趣である。
――けして、見捨てないでくださいませ。
――ああ、見捨てないとも。
 他愛の無い口約束を繰り返しにも甘美な響きが潜んでいるようで、私は幸福感に酔いながら何度も同じ答えを返した。女の笑顔ははっとするほどに美しく、老成していると同時に少女然としていて、瞬きごとに印象が移り変わるその顔を網膜に焼き付けながら、私は女と約束を交わせた幸せを噛み締めていた。


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