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爪切り(くれとー)完
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 女は爪を口内に含むと、夢見心地の如く呟いた。
――これは、生活の苦しさでやむにやまれず、盗人となった男の爪でありました。男は最初、生活に困っていない豪商を盗みの対象にしようとしましたが、豪商は富の力でその財を守っておりますので迂闊に手は出せません。悩みに悩んで明日の食料さえなくなったとき、男は自分より弱い者を蹂躙することに思い至りました。男は流行り病で夫に先立たれ、六人もの子をひとりで育てている女の家に押し入りました。女を暴力で脅し、金目の物を全て差し出させ、ついにはその衣まで剥ぎました。母親を助けたい一心の子供たちが足にすがりついてきても、男は彼らを殴って家を荒らし続けました。彼らが息絶えてまでも。
 私は妙なる楽の音でも聞いているように、女の声に耳を傾けた。私にとっては女の語る内容はどうでも良かった。その美しい調べが、こんこんと水が湧き出るようにずっと続いてくれればいいだけなのであった。よって女が爪を食うのはしばらく女の語る声が聞ける上にその幸せそうな笑顔まで見られるので、私にも喜ばしいことであった。
 女はコクリ、と喉を鳴らして爪を呑み込んだ。それと同時に女の顔に上品な笑顔の花が咲く。
――美味しゅうございました。
 相も変わらず幸せそうな笑みであった。どうやらこの笑みは、浅慮を良しとしない私の、滅多なことでは発揮されない出来心を十分に刺激するらしい。ふと思いついたことを、私は口に出してみた。
――そんなにも美味いものならば、私も一つ食ってみようか。
――爪を、ですか。
――ああ。お前がそこまで美味そうに食うのだ。私だって食ってみたいと思いたくもなる。
――ですが、口に合う合わないがありますわ。
――構わない。一つ分けてくれないか。
 女は困った顔をして私を止めたが、最後には観念したように壜の三日月を一つ譲ってくれた。女が美味そうに食べる爪というものは、どんな極上の味がするのだろうか。女の読み取っている客観的な記憶と言う奴は、どんなものなのだろうか。私は期待にはやる心を抑えながら、その三日月を口に放り込んだ。
――どうでございましたか。
――私にはお前の真似が出来ないことがよく分かった。
 爪はつるつるとして硬く、舐めても何の味も感じなかった。他人の記憶が脳に流れ込んでくるようなこともなかった。
女が食っているとまるで最高級の甘露のようにも見えるのに、私の舌では味がしないとは。軽く失望を覚えながら私は爪を吐き出した。せめて、僅かな塩辛さでも感じればまだ慰めようがあったものを。
――人には向き、不向きがあるものです。仕方ありません。
 女は私が吐き出した三日月を壜に戻し、淡々と言った。私は納得して相槌を打った。どうやら女の舌は特別製らしい。多少は付き合いが長くなっても、やはり不思議な女だった。儚いようでいて、一目で焼き付く印象を持つ。年齢を感じさせない態度と浮世離れしたような美しさが女に同居していて、たまにその存在が現の人のものではないような気さえしてくる。この女ならば、常人には持てない舌を持っていても、それ以上のどんな不思議を隠し持っていても可笑しくはないと、私は思っていた。


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