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爪切り(くれとー)完
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――いかがなさいましたか。
澄んだ高い声が凛と夜の小路に響く。私は夢から揺り起こされたようなはっとした思いで女を見つめた。女は爪切りを置いて代わりに私の指をその手で包む。
――爪は切り終わりましたのに何も反応を示さないなんて、随分ぼうっとしていらっしゃったのですね。
――以前のことを思い出していたのでな。私らしくもないことに。
――何を思い出しておられましたか。
――お前と出逢った晩のことだ。 
――あら、それは光栄に御座います。
 女は口元を着物の袖で隠してふふ、と笑った。初めて逢ったときと変わらぬ白い袖だった。漆黒の闇の中で、月の光で紡いだように美しく映える。非現実的でもあり幽玄でもある女の美しさは、太陽や月が現れない新月の夜にこそ最も映えるのかもしれなかった。
 私が女に初めて出逢ってから、もう季節は二つ移ろっていた。女は毎月新月の夜に道往く人の爪を切るためこの小路で座っているらしい。女とであった次の月より、私は新月の夜を迎えると女に爪を切ってもらうためにこの小路を訪れるようになった。女に爪を切ってもらい、夜が明けるまで取るに足らないことを語らい、朝が訪れる前に小路を去る、これがそのような晩の常となっていた。真夜中の細い小路をぶらつくような偏屈な輩は早々いるわけも無いので、当然のことながら小路に居るのは私と女の二人だけであった。少なくとも、私がその小路に居る間は他の人間が小路に居るのを見たことはない。
 女は私の爪の切り滓を寄せ集めると、木箱の縁を使って瑠璃色の小壜に注ぎ込んだ。波打つように三日月の欠片が跳ねて、壜と同じ色に染まる。
――今日は、爪は食わないのか。
――そうですね、食べるといたしましょう。今日はこれを。
 女は小壜の中から一片の切り滓を選び出すと、唇の上に載せた。女の手の内にあるとき、それはただ端に垢のこびりついた、ややくすんだ切り滓であったが、女のつやつやとぬれた唇に載ると真珠のような光沢を放った。本物とも遜色がないような、深みのある乳の色だった。


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