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爪切り(くれとー)完
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 だから肉屋のことを今しがたその眼で見てきたかのように事細かに述べられたのか。女の説明は私がさして短くもない人生で培ってきた常識から見れば異端視されるようなすこぶる奇妙なものではあったが、妙に説得力と言うか、腑に落ちる部分があった。私には私の常識があるように、女には女の常識があるのだろう。そう考えると、己が常識だけに盲目的にかじりついていた自分が愚かしく思えてきた。事実は顔も知らない科学者様の言うとおりなのかもしれないが、目の前の女の言う通りなのかもしれない。だが私は人体の専門家では無いので如何とも判断しがたいのだけは確かなのだから拘泥するだけ馬鹿馬鹿しい。
――しかし、他の部分でもいいだろうに何故爪だけを集めている。
――それは、爪ならば頂きやすいですから。切った後の爪は、貴方方にとっては不要でしょう。
――それだけか。
――いえ、爪は風味も格別なので御座います。
 女はまたとろけるような笑みを浮かべた。その笑顔があんまり幸せそうなので、つい言葉が口をついて出た。
――私も爪を切ってもらえないだろうか。
 ほんの出来心が生んだ言葉であった。
 女は一瞬目を丸くすると、すぐに笑顔に戻って木箱をはさんだ向かいを指し示した。
――喜んで。さあ、そこにお座りください。そして、木箱の上に手を広げてください。
 私は女の言葉に素直に従った。
――では、切りましょう。指は出来るだけ動かさぬよう、お願いいたします。
 女のすらりと白い指が真鍮の爪切りを取り上げて、私のつま先にあてがった。その瞬間、私はふと、子供の頃老人達に飽くまで聞かされ続けた迷信を思い出した。
 夜に爪を切ると不吉なことが起こる、と。詳しい内容までは覚えていないが、それを理由に夜に爪を切るのは硬く戒められていたのだった。
 急に胸が早鐘を打ち出した。私は迷信を妄信するわけではないが、不吉な迷信が付随するなら別だ。私は女にやはり止めてくれるよう声を上げかけたが、それより早く女は爪を切り始めた。不思議と、女の操る爪切りがぱちり、と小さな悲鳴のような音をたてた刹那、今までの怯えが嘘だったかのように不安は発作的に消し飛んでしまった。妙に心を落ち着かせる音であった。切られているうちに、爪の欠片が指先から離れていくことに一種の小気味良ささえ覚えている自分に気がついた。
他人に爪を切られるのも、まんざらではない。最後に残った小指の爪が切り取られたのと同時に、私は心の奥で呟いていた。


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