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爪切り(くれとー)完
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 女が幸せに浸るように、目をつぶって口を閉ざしたのであたりは静寂に包まれた。耳に心地よいその声が聞こえなくなったのが残念で、私はまた女に訊いた。
――先程お前が語っていた、あれはなんだ。
――肉屋のことでしょうか。あの肉屋は、私の食らった爪の持ち主でありました。
――お前はその爪、一つ一つの持ち主を覚えているのか。
 女はきょとんとして、不思議そうに私を見上げた。私の言っていることに得心がいかないような、訝しげな顔だった。
――いいえ、覚えておりませぬ。
――だが、肉屋のことは鮮明に語ったではないか。
――それは、食べれば解ることではありませんか。
――食べれば解る、とは。
 重ねて問いかけると、女は成程、それがわからなかったのですねと急に納得したように頭を振った。
――記憶、と言うものをご存知ですか。
 脈絡のない話題転換に面食らったが、私は内心を押し隠して女の問いに首肯した。
――ああ、知っているとも。
――では、貴方の知っている記憶とはどのようなものですか。
――自身の体験した出来事の記録だ。普段は脳にしまってあり、必要なときに取り出される。我々一人ひとりが主観的に行っているはたらきであるため、時としてきわめて不正確だ。
 女は、それが貴方にとっての記憶なのですね、と念を押した。それをああ、と認めると、女は小瓶の蓋を載せながら淡々と言った。
――確かに、貴方方が言う記憶とは、脳に蓄積されるものなのでしょう。ですが、それでは可笑しいと思われませんか。私達の体は、常に等しく全ての部位が外界からの刺激に晒されているのに、その刺激を記憶しているのが脳だけとは。こんなちっぽけな頭に納まりきる一つの器官だけが体の全ての記憶や経験を記録していると言う説明に、不自然さを感じませんか。
――だが、それは科学で証明されている立派な事実だ。屁理屈をこねたところで、事実は覆らない。
――ええ。事実は覆りません。だから私は、名前も知らない偉い科学者様よりも、私自身を信じるのです。記憶は脳にだけ蓄積されるのではないのだと知っている自分自身を。
――そこまで言うか。ならば訊こう。脳以外の何処に記憶が蓄積されるのだ。
――それは、私達の体全てです。
 女は自分の論を私に認めさせようと躍起になるでもなく、水が低地に流れていくような自然さで説明を続けた。
――脳に集まる情報は、元々は私達の体の器官、細胞一つ一つが受け取った刺激です。私の言う記憶は、その刺激が細胞を通過する際に無意識下に記録されてしまうものなのです。あなたがすべての記憶が脳に蓄積されているとおっしゃるのは、その細胞一つ一つより送られた情報を集積し、整理する場だという事実を拠り所としているのだと思います。確かに、脳は特別な場なのでしょう。感情も、周りを認知した上で出される体組織への命令も、全てはこの場所でしか産み出されません。脳は記憶を加工する場所なのです。そこに残る記録は、無駄な部分が省かれたり、感情で彩が添えてあったり、事実に限りなく近くても絶対に事実そのままとは成り得ない、主観的な記録です。それに反して、体全体に蓄積される記憶は常に何処までも冷静で忘却のない、感情のような曖昧なものを差し挟む余地のない、客観的な記憶です。どんなに都合の悪いことでも、改竄されることのない。
――よしんばそのような記憶があるとしても、どうして誰もその存在に気付かないのだ。
――細胞には思考という概念はありませんから、気付くことは出来ないのです。記憶はどこまで蓄積されても蓄積され続けるだけであり、したがって客観性が残るのです。それを味わうには外部から読み取るしかありません。
――まさか、だからお前は。
――ええ、その記憶を味わうために他人から爪を頂き、食うのです。体のどんな末端にも記憶は蓄積されますゆえ。


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