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爪切り(くれとー)完
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 闇のせいで道を間違えてしまったのか、いつもならすんなりと帰れる道なのに、今日は中々見知った通りに出ることが出来なかった。とにかく走り続けたが、走り続けた分方向感覚も失っていくようだった。元の場所へ戻る道も、行くべき道もわからずに右往左往している私はまるで、出口の無い迷路をさまよっているようであった。
 無我夢中で走り続けていたと思ったら、いつの間にか私は自分の家の前に息を荒くしてへたり込んでいた。辛うじて息を整えて玄関を開けると、内部でなにやら人の気配がする。おい、と声を掛けてみたら、小豆色の着物を着た女が玄関先まで出てきた。この手で殺したはずの妻であった。
――お前、どうして生きている。
――どうしたんですか、あなた。悪いものでも食べましたか。
 妻は解せないといった表情で首を傾げている。私はほとんど躍起になりながら妻に詰め寄った。
――私はお前を殺したはずだ。この手で首を絞めて。何故生きている。
――縁起でもない。冗談が過ぎますよ、あなた。
――冗談ではない。私は確かに。
――あなたの話が本当だとして、じゃあ何であたしはここに生きてるんです。
 妻の反論で、私は言葉に詰まった。妻の言い分に確実に理があった。
――ならば、あの出来事は何だったというのだ。
――酔っているのでしょう。悪い夢でも見たのではありませんか。
――夢、なのか。
 妻の殺害に罪悪感を抱いた瞬間より、一番聞きたい言葉であった。実際、鮮明だと過信していた出来事の輪郭は、時間の経過と共にどんどん朧になっている。夢だったのか、と私はもう一度呟いた。考えてみれば、あの出来事が事実だったと証明しても、私の利益になることなど一つも無いのだ。人殺しの罪状で、ただ裁かれるのを待つのみである。妻は、慈愛に満ちた口調で言った。
――疲れているのでしょう。今日はもうお休みなさいませ。
――ああ、そうしよう。
 心身ともにぐったりと疲れていた。私が下駄を脱いで奥へ向かおうとすると、妻は唐突に呼び止めた。
――あなた、手を見せてください。爪が割れています。
 妻に言われて見てみると、確かに右手の中指の爪が割れていた。妻は何処からか小ぶりで真鍮製の爪切りを取り出すと、パチリとその爪の先を切った。
――これで、大丈夫です。心置きなくお休みください。
 私は礼を言うと、一直線に寝室へと向かった。今はとにかく眠りたかった。


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