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爪切り(くれとー)完
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 女は爪を切り終わると、三日月を小壜に集めて封をした。私は礼を言うと、何の意味もなく空を見上げた。空には厚く雲が垂れ込めており、当分晴れ間は拝めそうにない。
無為に空を眺めていると、また妻の追い縋ってくる姿が脳内で再現された。爪を切られている最中から、殺した妻の姿が脳裏から離れなかったのだ。煩わしい蝿のように、その光景が延々と付きまとって離れないのである。妻を殺したことについては何の感慨も無いが、しつこく繰り返されると嫌になってくる。
 私は繰り返される光景を僅かな間だけでも忘れていたかった。他の事に心を奪われれば念頭から消えるだろう、そう思った私は無性に女の声が聞きたくなった。あの楽の音のような旋律は、きっと私の悩みを頭から追い出してくれるに違いない。
――爪は食べないのか。
――そうですね、食べることにいたします。
 促すと、女は瑠璃色の小壜から無造作に一片を選び出すと、唇に乗せた。私は脳内の映像を振り払うように首を振ると、柘榴石のような赤い唇が語り出すのを待つ。
――これは、他の女の元へ行く為に妻を殺した男の爪でありました。
 夢から覚めたような心地であった。それも、眠っていたら急に頭から冷水を浴びせかけられたような、とても後味の悪い覚め方であった。
――持ち主の男は、他の女への贈り物を持って家を出ようとした際に妻に呼び止められ、外出しないで欲しいと懇願されました。しかし男は妻の呼び止めに全く応じず、ついには家を出て行こうとします。
 女の声は、けして楽の音のように快いものには聞こえなかった。言葉の一つ一つが、耳に刺さる。もう一度そのときの光景が、妻と自分のやり取りが克明に、意味を持って反芻される。
――男の腕に、妻はしがみつきました。無我夢中で、我が身を省みず。しかし、男は無慈悲にも女を振り払い、力の限り地面に叩きつけます。それでも女は諦めきれず、また男に縋ります。ですが男は全く妻の言葉に耳を傾けようともせず、縋り付いてくる度に妻を地面に叩きつけます。それが幾度も幾度も繰り返されて、そして――
――止めろ、止めてくれ。
 その先は聞きたく無かった。全身から冷や汗が噴き出し、
膝が笑い出す。記憶をなぞっていくごとに、そのときには感じなかった恐怖が改めて襲ってくるのだ。自分の犯した過ちが、紛れもない事実が私にのしかかってくるのだった。悪い夢だと思いたかった。嘘だと思いたかった。


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あきゅろす。
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