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爪切り(くれとー)完
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 私はふつふつと、急速に苛立ちが自分の中で膨れ上がるのを感じていた。つくづくこの妻の存在が邪魔だと思った。また無言で腕を振り払い、妻の体を地面に叩きつけた。短い悲鳴が聞こえた。だが、妻は再度立ち上がり、私に縋り付く。
 何度も、それを繰り返した。繰り返す内に、膨れ上がった苛立ちが一つの感情として凝固していった。
 地面に叩きつけた妻が、喰らいつくように袖に捕まる。土で薄汚れた小豆色の袖と、解れた長い髪が私の腕に掛かった。叫び声は尚も上げ続けているが、私はそれを人類の言語だと認識できなかった。まるでカラスが狂ったように上げる嗤い声のようだと思った。涙と汗、土埃で汚れた歪んだ顔があった。壮絶であり、醜悪な顔だった。これを妻にしていたとは、金輪際思い出したくない。問題なのは、これが女の元へ向かう私を阻害しているという点だ。
 邪魔なものは、壊してしまえばいい。誰かのささやきが聞こえた気がした。そうか、と私は納得した。障害物を壊したとしても誰の害にもならないのだから、私は咎められはしない。
 着物さえ引き裂きかねない恐ろしい力で縋り付く妻の首筋を捕まえて渾身の力で引き剥がすと、私は妻の首を絞めた。
妻は目を見開いて、私を見た。瞳に初めて怯えが過ぎった。妻はやがて喘ぎながら掠れた声で言った。
――やめてください、あなた。
――何でもすると言っただろう。生憎、私はお前の存在自体を必要としていない。消えるがいい。
 冬だというのに汗で妻の首の皮に手の平が張り付いて、気持ちが悪かった。その汗は、果たして死に逝く女の汗なのか、殺そうとしている私の汗なのか。私の指が首筋に食い込んでいく度にひくひくと、妻の喉が別の生き物のように微かに動く。抵抗するように四肢がもがいていたが、それもすぐに止んだ。細い喉に痣の斑点が浮かび上がる頃、妻は完全に動きを止めていた。直前、幾度も縋り付いてきたときの力強さとは裏腹に、あっけない死に方だった。
 辺りはすっかりと闇に包まれていた。夜になってから雲が出てきたのか、空には星さえも姿を現さなかった。私は闇に乗じて、病人でも背負うかのように妻の死体を運ぶと、家の裏の堀川へと捨てた。多少は人ともすれ違うかと思ってそうしたのだが、往来は全くの無人だった。だが、この暗さならば無理もないだろう。闇はいつぞやの女の瞳のように底の知れない深さを呈しており、暗がりに何が潜んでいても可笑しくない。ふと物陰に足を踏み入れただけでも、人ならざるものに絡め取られてしまいそうな、濃密な闇が街中一帯に鎮座しているのである。私も女に会うためでなければ、外出を躊躇うところである。


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