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爪切り(くれとー)完
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  爪切り                くれとー 
月の無い晩であった。
 黒々とした底知れぬ闇が辺りを支配し、その静けさは耳鳴りがしそうな程であった。複雑に入り組んだ小路の中を進んだ先にある、比較的太い小路が交わる四つ角のぽっかりと開いた空間の片隅に、夜の闇と寄り添うようにその女は端座していた。
 まるで、月の化身のような女であった。
 闇は変わらず濃密に鎮座しているのに、女は淡い光をまとったかのように周囲の闇から浮き上がって見えた。身にまとっている着物は白く、あたかも死に装束のようである。袖からのぞく手首も小枝のように華奢で、透き通るように白い。そして肩からは女の横顔を隠すようにカラスの濡れ羽のような、艶めきを持つ黒髪が流れ、上半身を肩掛けのように覆っていた。女は真新しい木箱を前にして座っていた。削りたてで、鼻を近づけたらまだほのかに木の香りが漂っていそうな白木の木箱である。箱の上では瑠璃色の硝子小壜と、真鍮でできた爪切りが鈍い光を放っていた。
 女は私の存在に気づいていないように虚空を見つめ、ほうと息をついた。普段なら道端に座る、見るからに怪しげな人物になどけして声をかけない私だが、その時は妙にその女へ興味がわいて、気がついたら何をしているのかと声をかけていた。理由を突き詰めると、友人の愚痴につきあわされてほろ酔いだったから、佇む女にあまりにも現実味がなかったからなどとそれらしいものにはいくつか思い当たるのだが、それらはあの女と初めて逢った時の夢のただ中にいるような浮遊感と、自分の中にもう一人自身を客観的に見ている自分がいるような冷静さが同居している奇妙な心情を説明するにはことごとくそぐわない。もし世界中の全ての言葉を知っていたとしても、適切な説明はすることができないのではないのかと思えるような、そんな不可思議な心情だった。街中を包んでいた闇が私の気まぐれを行為に結びつけたのかもしれない。
 女は小首を傾げると、私の方へ振り返った。黒曜石のような瞳が鏡のように一瞬私の姿を映し出し、すぐ伏せられる。女は真鍮の爪切りをそっと手のひらに載せると、唇を綻ばせた。
――爪を切っているのです。
 呟くように言った女の声は、鈴を振ったように高く澄んでいた。
 こんな夜中に、人気はないとはいえ往来で爪を切っているとは酔狂なことだ。それとなく女の手元を見るとその爪はすらりと形よく伸びていて、私には爪を切る必要はないように思われた。だが、たとえ今の女の爪を私が美しいと感じても、女は爪を切るそれなりの理由を持っているのだろう。私には女の事情に口を挟む道理がない。


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あきゅろす。
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