2 幼少の頃、母親とブラウン管越しに見たあの場所が、十数年経った今でも花井の中から消えることはない。ただもう、あの場所に立つことを夢みるだけの年齢ではなく、叶えるためには死に物狂いに踏み出さなければいけなくなっていた。 幼き日の自分が見続けた夢は果てしなく何度も挫折しそうになってしまうけれど、自分を突き動かす理由としては6割を占めていよう。残りの4割りがほぼ田島だという事実には正直嫌気がさす。そしてそれは一緒に目指したいからとかいうナマヌルイ感情ではない、もっと黒くてドロドロしていて気持ちが悪いものだ。 物心ついた時から何でも一通りこなせるだけの頭と体を持っていた。何でも出来る、そう言えば聞こえがいいかもしれない。中学まではそれでよかった。成績は上位をキープしていたし、野球部では主将で4番、それだけの自信が備わっていた。けれどその順風満帆な道も高校に入ってすぐに薄れていき、それまで培ってきた自信は根こそぎ奪い去られてしまった。 ステップした田島のバットから響き渡る金属音がいつまでも耳に付いて離れようとしない。天才というモノを初めて見た、そんな感覚だった。同時に何でも出来るのは何も出来ないのと同じだとわかってしまった。 悔しい、羨ましい、妬ましい、それらを嫉妬という言葉で片付けてしまえるほど浅い感情などではない。それは色さえ違えど激しく燃え盛る恋の炎と同じもので、花井は田島から目が離せなくなった。 田島という存在がそうさせ、花井の中に小賢しいほど嵐を巻き起こす。百歩譲っても気持ちがいいと言えるものではなかった。 それが恋の色に変わってもドロドロと付き纏う感情に変化はあまりなく、むしろさらに花井を苦しめることとなっていた。嫉妬でどうにかなってしまいそうな相手に恋をした。それは時に何もかも奪ってしまいたい欲情と化し、花井の中を執拗なほど蝕んでいくのだった。 皆が帰ったあとの部室内、田島は部誌を書いている花井が相手をしてくれないから椅子に座ったまま一人窓の外を眺めていた。さっきまであんなに綺麗だった空の色が薄暗い雲で覆われ始め、隙間から今にも雨が降り出しそうな匂いがヤケに鼻に付く。 「ひゃー、なんか降りそ」 「なんだって?」 電車の中から流れる景色を見る子供のように窓に張り付いている田島の横から花井の顔が現れた。田島と同じように窓の外を見やり、空の色に気付くとあーと自然と声が上がった。 「オレ傘ねェぞ」 「オレもねェ。花井終わった?ンなら降んねーうちに帰ろうぜ」 そう言うと田島は張り付かせている掌はそのまま、ギィと椅子を少し引いて顔を花井に向けた。残った掌の間には張り付いていた顔の名残が跡となり、田島の吐いた息がなんとなしに唇を形取っているように見え花井の心臓が跳ねた。 「はな、」 気が付くと誘われるままに振り向いた田島の唇を塞ぐ形で自分のを重ねていて、突然のことに驚いた目がすぐに嬉しそうに閉じた。愛しくてどうしようもない相手だからこそ、そんな小さな仕草にも例えようのない興奮を覚えたのだ。 「は、田島…舌」 「…ンぁっ」 田島とするキスはこれが初めてではない。けれど、花井からするキスは初めてだった。それが嬉しくて花井が求めるままに田島は舌を差し出し、その行為に酔いしれるのだった。 田島の舌を口内に閉じ込め、花井は自らの舌で絡め取り強弱をつけて吸い上げる。一通り田島のそれを味わうと今度は田島の中へ入っていこうと、指で顎を引いて田島の唇を割った。 「ん、はっ…」 すんなりと開いた田島の中へ舌を押し入れたまま、また田島の舌と絡め合い深く探っていく。もっと深く田島と繋がりたい、田島が足りない、その全面に押し出た気持ちが花井の行動を強引なものへと変えていった。 花井から送り込まれてくる唾液が田島のと混ざり合って嵩が増し、そうはしたくなくても田島の唇から糸を引いて伝い落ちていく。息も絶え絶えに漏れ出る声はすべてが鼻にかかり甘さを増していった。 普段の花井からは似つかわしくない性急な行為に、田島は熱に浮かされながらも言葉にはできない変な気持ちを覚えた。それは田島の頬を包み込んでいる花井の両手が小刻みにずっと震えていたからかもしれない。 「は、ない」 花井の大きな手が田島のTシャツをたくし上げ、直に腰に触れてきた。しかし唇の離れた田島の表情は熱を持ったさきほどまでのものではなく、その目はジッと静かに花井の中を窺っているようで。それが花井にはとてもじゃないが耐えられなかった。 「…ッ、オレ…!」 純粋すぎる真っ直ぐな瞳にこれ以上映りたくなかった。こんな汚れた浅ましい気持ちを目の前のこの男には絶対に知られたくない。すっかり動揺した花井は後退り、窓ガラスに背中を打ち付けた。揺れたガラスの音は今の花井の心境をまんま表しているようで益々胸がざわつき、焦点がぶれて定まらない。 「花井…?」 ハッと気付いた時にはそっと伸ばされた田島の手を振り払ってしまっていた。けれど田島の目は揺れるどころか落ち着き払っていて花井を真っ直ぐに見つめていた。 「悪い…。オレ、鍵返してくっから、先…」 「わかった、帰るよ」 逸らしてもなお突き刺さる視線の先からする田島の声がやけに遠く聞こえ、素直に部室から出て行こうとする田島を引き止めたいのかそうじゃないのかわからなかった。去り行く背中に向かって呟いた名前は信じられないくらい弱々しくて、何より田島と向き合っていける自信が霞んでいってしまいそうで怖くなり、その場に膝を抱えることしかできなかった。 (08/08.31) |