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 次の日の寝覚めは最悪だった。清々しいほどの晴天だというのに花井の体はだるく、見えない薄皮で覆われているかのように上手く動かせないでいた。それでも時計の針は刻々と過ぎていく。逃げ出したいけれどそうはいかない、田島と顔を合わせることになる朝練の時間になり、花井の体はよりいっそう重くなるのだった。
「…うす」
「はよ」
 運動部たる者、挨拶だけはしないと気持ちが悪くていけない。それがどんなに気まずい状況下であろうと。花井は田島とぎこちなく挨拶を交わしたきり、無意識に足が田島から遠のいていく。練習の合間に何度か田島から声をかけたそうな雰囲気を感じ取れたが、花井は気付かないフリをしては田島以外の誰かの側に行くのだった。
 何もなかったように話すことなんてできない。見る限り田島は昨日のことなんて問題にしていないかのようにいつもと変わらない態度で、それが余計に花井を遠ざけていたりした。
「田島、くん」
「三橋」
「早く着替えない と、チャイム鳴る よ」
 グラウンドからぞろぞろと部室に向かう集団の中、頭一つ分飛び出ている花井の後ろ姿を田島はベンチ前から動かずにじっと見ていた。三橋から声をかけられてもその視線は外さずに、返事だけして歩き出した田島に三橋はさらに声をかける。
「元気 ない?お、おなかすい た?…とか」
 おずおずと少し遠慮して言う三橋に田島はやっと花井から視線を三橋へと向け、ニッコリ笑ってから大袈裟に土を蹴った。
「おお、ハラ減ったな!でも早弁すっにもさすがに早すぎるよなー!」
「オ、オレ、余分にパン あるっ。ふ、ふたつ!」
 ひとつ田島君にあげると言う三橋に田島は目を輝かせて喜び、三橋の肩に腕を回してもたれ掛かる。それから戻した視線の先にもう花井の姿はなく、眩しい陽の光だけが残されたグラウンド全体を包んでいた。

 教室移動だった三限目の授業が終わり、自分のクラスに戻るには否が応でも9組の前を通らなければならなかった。何食わぬ顔をしてサッと通ってしまえば気付かれることもないだろうと、花井は背筋を張って早足で行く準備にかかる。
「あ、わり。9組よってい?」
 一歩先を歩いていた阿部が不意に振り返って花井と水谷に聞いた。いつもならすぐに頷けるものを今日はそうはいかなく、花井は意表をつかれたとばかりに息を呑んで阿部に聞き返す。
「……なんで?」
 動揺が少し出てしまい声がオカシかったが阿部がそれに気付いた様子はなかった。
「田島にノート貸してんだよ、英語の」
「阿部に?めずらしーね」
 いつもなら花井なのにネと何食わぬ顔で言う水谷にドキリ、と花井の心臓が跳ねた。
 付き合っていることこそバレてはいないが、田島といえば花井、花井といえば田島、という方程式が部内で定着してしまっているらしかった。それほどまでにいつも一緒にいたのかとわかってしまった事実に花井は無言で肩を落とす。それと同時に田島が花井ではなく阿部にノートを借りていたことに胸が絞まる。先に遠のいたのは自分からだというのに。
「アイツ、4限で使うっつったのに返しにこねーでやんの」
「まあ通り道だからよかったじゃん。ね、花井」
「はっ、…お、おー。そーね…」
 急に話を振られ挙動不審がちに頷く花井に、そんなに驚くほどのモンじゃないでしょーよと水谷は首を傾げる。そんな二人を気にも止めずにさっさと歩き始めた阿部の足は、花井の胸中も知りもせずに9組へとズンズン歩幅を進めていくのでもはや付いていくしか道はなかった。

「相変わらずうっせーなァ、9組は」
 そう言った阿部の背後から覗いた教室内では9組の生徒がごった返し、他に混じって聞こえるゲラゲラと心底楽しそうな笑い声が一際大きく耳に付いた。間違えるはずがない、田島の声。その声の主は教卓の前を陣取り、黒板に浜田が何か書いているのを見て泉、三橋と一緒になって笑っていた。
 腹を抱えて笑い転げていたかと思えば急にふくれっ面になり、今度は泣きそうな顔をして見せ、そしてまた笑う。コロコロと変わる表情は遠目から見ていても飽きることはなく、花井を捉えて離さなかった。
 誰よりも笑顔が似合う田島だから、その笑顔を絶やしてほしくない。その澄んだ瞳にはそれに見合うぐらいのキラキラとしたモノしか映さなくていい。汚いモノなんて田島には必要ない。それは花井のエゴともいえる願望だった。
「たじまー!」
 阿部が声を張って教壇の輪の中の田島を呼ぶ。すぐに阿部の声に反応した田島が笑った顔のままでこちらを振り返ったのが阿部の背中越しに見えた。
「ノート返せテメー」
「あ、わり。ちと待って!」
 どうやら阿部の言うとおり返すことなどすっかり忘れていた田島はすぐに教卓から飛び降り、自分の席に戻って机の中を漁り始めた。教卓に乗っちゃ危ないよーと言う水谷の声なんて聞こえてないらしい。
 そこから田島は漁り始めたはいいがなかなかお目当てのモノが見つからないのか「あれー」とか「っかしーなー」なんて呟きすら聞こえ、その様子を一緒に見ていた水谷が阿部に耳打ちをする。
「…ね、9組の英語の授業って何限だったの」
「借りにきたのが1限終わったあとだったから、2限じゃね」
「間にたったの1限しかなかったのになんであんな探さないと見つかんないの!?」
「オレに聞くなよ」
 阿部と水谷がそうこうしているうちにようやくお目当てのモノを探し当てたらしい田島がこちらに駆け足で寄ってきた。右手に持ったノートを阿部に差し出し悪いと思ったのか苦笑いを浮かべ口を開く。
「わりーわりー、探すのに手間取っちゃって」
「つーかお前返しにこいよ」
 呆れてため息を吐く阿部に今さっきまで自分が持っていたノートで田島は頭を叩かれた。
「ん。次からは気ィつける!」
 ビシッと気を付けの姿勢をとり、反省しているのかしていないのか田島は阿部と水谷にニッと笑いかけてからそのまま阿部の後ろをひょいと覗き込む。見間違えるはずがない、さっきまでそこにいた花井の姿が今は見当たらなくなっていた。
「花井は?」
 水谷に問いかけた田島の表情はどことなく明るさが半減しているようで上がっていた唇が目に見えて下がっていく。
「あれ?さっきまでいたのに」
 今日の花井なんかおかしんだよねーと余計な一言をくっつけて水谷が額に手をかざしぐるりと廊下を見渡した。廊下の端から端、どこを見ても花井の姿はなく田島の唇はすっかり山を成していた。
「おい、もう時間ヤベーから行くぞ」
「っと、もうそんな?んじゃね!田島」
「お、おー」
 水谷を置いてさっさと行こうとする阿部の後ろを水谷が文句を垂れながらもついていく。そんな二人の後姿を見ながら田島はいつもならそこにいるはずの三人目の名前をポツリと呟いた。





(08/10.02)



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