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第一章 異端の力
其の8

 毎日何かに怯え暮らしていた時に、ある人物がこれを持ってきた。それは今でも記憶の中に残り、時々それを思い出す。だが、強くは思い出せない。すべては断片的で、おぼろげな記憶。

 思い出そうとすれば何かに阻まれ、記憶を手繰り寄せることができない。一体、何に怯えていたとのいうのか。何をそんなに、怖がっていたというのか。それは、あの白い部屋を思い出してしまうからだ。

 全てが白に染まった、牢獄のような空間。そして、其処に立つ人間も白い服を纏う。毎日同じ言葉を繰り返し、ソラをいう存在を何処かへ連れて行く。それに、どのような意味があったのか。

 しかし、思い出すことはできなかった。連れて行く者の顔も名前も――彼等は、何の目的で連れて行く。何をしようとしていたのか。まるで、悪夢の連鎖。無理に思い出そうとする度に、頭痛がする。

(思い出したくないという、拒絶反応か……)

 声を出さずに唇だけ動かすと、急にキーボードを打ちはじめた。一通り文章が完成するとそのまま送信しようとしたが大切なことを思い出し、文章を二行追加することにした。「自分勝手に決めずに、相談しろ」簡単に説明すればそのような文であり、ソラの心情が表れていた。

 メールを送信し終えると、パソコンの電源を落とす。と同時に、冷たい暗闇が部屋の中に広がる。それは外から差し込む淡い光と交じり合い、ぼやけた視界を生み出す。それにより、今まで感じることのできなかった寂しさが心の中に広がり、チクっと胸元が痛み出す。

 ソラは倒れこむようにベッドに横になると首元を緩め、無意識に天井を見詰める。変わることのない冷たいそれは一日が無事に終わるということを告げ、生きているということを教えてくれた。

 ベッドに横になればすぐに眠気が襲ってくるのに、今日に限って目が冴えてしまう。だがどうせすぐに眠れると、暫く天井を見ていた。雨音だけ聞こえる、薄暗い部屋。音は、それ以外ない。

 その時、胸の周囲が焼き付くように締め付けられた。食べ過ぎて、胸焼けを起したというものではない。

 ソラは、瞬時にその症状の訳を察知した。それはいつも前触れも無く起こり、自身を苦しめるもの。そして一旦症状が発症すれば、決して逃れることはできない。それほど、この症状は辛い。

(もう、切れたのか……)

 ベッドから起き上がるとキッチンに向かい、棚からビンに入った錠剤を取り出す。それを口に放り込むと、水と共に飲み込む。暫くすれば薬が効いてきて気分も良くなるはずだったが、妙な違和感を感じた。唇が乾き、胸がムカムカとしてくる。それに、思い通りに呼吸ができない。

 刹那、飲んだばかりの薬と食べ物が胃から込上げてきた。それは、止まらなく繰り返される嘔吐。胃が空になってもそれは続き、胃液さえも吐き出してしまう。力が入らない手でレバーを上げ、水を流す。

 吐き出した物の中に、血が混じっていたことに気付く。その時脳裏に、ある人の台詞が思い出される。「お前は、これがなければ生きられない」という言葉を。ソラは思わず顔を顰めた。

(……煩い。オレは玩具じゃない)

 笑い声と共に、あの人物はそのような言葉を言っていた。悔しくて、仕方がない。しかし、薬なしで生きていけないというのも、また事実であった。逃れることは、決してできない。

 耐えがたい状況に、毒付いてしまう。ソラは瞼を硬く閉じ、流れ出る水を被った。その冷たさに、頭が疼く。

 しかし不快感を忘れたいかのように、更に水圧を強めていった。だが閉じられた瞼の裏側に浮かぶのは、忘れることのできない――いや、忘れてはいけない出来事。全てを奪った一件は、今もソラを苦しめている。人々に差別を受け、薬がなくては生きていけない。これこそ、悲劇の象徴だ。


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