龍の宝珠
八
今度は、班夫人の顔色が変わった。
真っ赤になったのだ。
「何なのこの失礼な子は!」
「失礼な方に失礼と言われるほどの侮辱はございません」
「!」
「それに、わたしは何もどちらが君子でどちらが小人とは申しておりません。お怒りになるという時点で、ご自分は小人とお認めになったも同様でございますね」
「……!!」
班夫人は、怒りのあまり口を閉じた。
そして、皇后と聡影にくるりと背を向けた。
「戻りますわ、わたくしとて暇ではないんですから。ああ、嫌だわ、とうとうわたくしをずっと立たせたままで。わたくしに勧める椅子はないとおっしゃるんですね」
あっ、と摘花は思った。
確かに、班夫人は先程からずっと立ったままだ。
席を勧めるのを忘れていた。
これは、もしや自分の役目だったかもしれないが、でもいまさらどうでもいいことだ。
「はい」
摘花はきっぱりと答えた。
「大変申し上げにくいことでございますが、あいにく、このお部屋には夫人のためのお椅子のご用意はないのでございます。今日だけではなく、これからずっと」
そして、扉に手をかけると、それを大きく開けはなった。
「ですからどうぞお早くお戻りに。いつまでも立たせっぱなしでは申し訳ございませんから」
夫人が、怒り心頭に発したのがわかった。
もう何も言わず、ただ摘花をにらみ据えると、大股に部屋を出て行った。
摘花も思わず、その背中を鼻息も荒くにらみ返した。
まったく実に、本当に、失礼な人だ。
夫人の姿が消えると同時に、聡影が笑い出した。
笑いながら席を立つと、摘花のそばまで行きその肩をぽんと叩いた。
「まったく、どうしてそう口が達者なんだ」
「ああ摘花」
こわばっていた皇后の表情が、見る見るうちにとけて柔らかなものになった。
「あなたはまあまあ、もう何と言ってよいのか…」
「母上、これであのお方は当分ここには寄り付かないでしょうね。この娘にあれだけ言われてしまっては」
聡影は笑いながら、だが摘花の隣を通り過ぎると廊下に顔を出した。
廊下には、皇后を心配した侍女たちが集まっている。
そしてどうやら中の様子に聞き耳を立てていたようで、口々に摘花をほめたたえている。
「よく言ってやったわね」
「すごいわ、あの班夫人を追い返したなんて」
一人二人が皇后のそばに近づいて、ようございましたと話しかける。
その侍女たちにちょっと目をやった聡影は、侍女ではなく宦官を一人呼び寄せた。
「至急、洪佑生にここへ来るよう伝えてくれ」
その言葉に、摘花はまたもや、あっと思った。
そうだった。
きっと、今の騒ぎはすぐに父親にも伝わるだろう。
これでまた父は青い顔で飛んでくるはずなのだ。
もしかしたら、班夫人のところに謝罪に行く羽目になるかもしれない。
そこまで考えた摘花はようやく、しまった、と思った。
さすがに言葉が過ぎた。
どうしよう。
とはいえ、もうどうしようもないのだけれども。
その摘花に、聡影は笑いかけた。
「大丈夫。おまえの父親には決して害が及ばないよう、うまく手を回しておくから。こちらとしてはむしろ、褒めるべきことなのだから」
「はあ…」
それでもまだ不安そうな摘花の肩を、聡影はもう一度おさえた。
「母上と私をかばってくれてありがとう」
「そんな…!もったいない…」
見上げた聡影のほほ笑みは、今日もまた阿周になんとなく似ていた。
ほほ笑みも、そして何より、自分を見つめる優しい瞳も。
そう、この瞳。
阿周によく似ている瞳。
洪佑生はすぐにこの顛末を聞きつけたようで、ここに飛んできたときには真っ青になっていた。
だが聡影と皇后から感謝の意を伝えられ、班夫人への謝罪には及ばないと命じられ、なんとか血の気の戻った顔で下がっていった。
それでもその後、摘花を呼びつけるととうとうと説教を垂れた。
さすがに摘花も今回ばかりは神妙に耳を傾けた。
「まったく、おまえを宮中に上げたのは間違いだった。舌禍という言葉を知らんのか。よりにもよって班夫人を相手に、こんな騒ぎを引き起こすとは」
確かに。
「今すぐにでも連れ帰りたいところだが、何しろ皇后様はおまえのことをお気に召されているし、いまも、どんなに褒めても褒め足りないといったご様子なのだ。おまえがいれば大丈夫だと随分とお心が休まったようでもある。聡影さまもそうおっしゃっているし、お二方の意に反してまで連れ帰るわけにもゆくまい」
「はあ…」
「だから、今おまえに望むことはただ一つ。とにかく、これからはおとなしくしているように」
「……はい」
戻ってゆく父親を、摘花は庭先で見送ったあと、懐から錦の袋を取り出した。
そしてそれを握り締め、ため息をついた。
いま、阿周がいてくれたら、何と声をかけてくれるだろう。
阿周はいつだって自分の味方をしてくれた。
軽率な行動のせいで、父親に叱られて落ち込んでいる自分を、いつもなぐさめて元気付けてくれた。
失敗したときも、大丈夫だよと励ましてくれた。
その励ましにすぐに立ち直った自分が笑うと、阿周も安心したように笑う。
いやでももう、何を考えたってその阿周はいないのだけれど。
摘花がもう一度ため息をついたとき、背後から声が掛かったのだ。
「摘花」
それは聡影だった。
突然聞こえた声に驚いて振り返ると、聡影がすぐそこまでやってきたところだった。
「また叱られたか」
摘花は、錦の袋を手の中に握り締めたままうなずいた。
「ですが、これは当然だと思いますから…。さすがに言葉が過ぎました。失礼でぶしつけなのは、わたしのほうです」
「そんなことはない。大丈夫、気にするな。あれくらい言わないとわからない人なのだから」
それでも、さすがに反省した摘花がうつむいていると、聡影は摘花についてくるよう言って庭を歩き出した。
だがすぐに一旦立ち止まると、摘花に隣に並ぶよう言った。
「そうだった、おまえは目を離した隙に迷子になるかもしれない」
「……いまは大丈夫です」
摘花が笑うと、聡影も安心したように笑い返した。
そして、今度こそ歩き出した。
「あの夫人はいつもああなんだ。おまえが助け舟を出してくれなかったら、母上はまた気がふさいで大変なことになっていたかもしれない。夫人が帰った後に寝込んだこともあるのだから」
そうでしょうと摘花はうなずく。
「ひどい物言いでございましたもの」
「聞き流すことがお出来になればよいのだが、そうもいかないようで」
「夫人は、どうしてあんなことをおっしゃるんですか?いえ、どうして、というのは耳にしています。ご自分のご子息をお世継ぎに、というのでしょう。そうではなく…」
「なぜ、私が父上の子でないと言い出すのかと?」
摘花はうなずいた。
「さあなあ。どこからどんな情報を得たつもりなのか…。いくらなんでも、父上の血を引かない者を皇子に仕立て上げるような、そんなことをしたらとっくに明るみに出ているだろうに」
さらに聡影は教えてくれた。
「班夫人は、私が生死の境をさまよったときに実は死んでしまっていて、他人と入れ替わったと言い張っているんだ。だが、いくらなんでも皇子でもない人間と入れ替えてそのまま世継ぎになんて、ありえないだろうに」
なるほど。
「あのとき」とはそういうときなのだ。
聡影が生きるか死ぬかという瀬戸際にいた、そのとき。
十年前だというそのとき。
「そうですよね。ああ、ですが、あの…」
摘花が言いよどむと、聡影はどうした?と摘花を見やる。
「夫人がおっしゃっていた『“あれ”の不備』とは…?大切なものなのですか?ですが陛下もご存知なら、大したことではないと思うのですが…」
「ああ、“あれ”」
聡影は、実際にそれが大したことではないように笑った。
「皇子が全員、出生時に父上から賜ったものなんだが、私のものは少し欠けているところがあってね。気が付いたら欠けていたんだ。
気付いた時点ですぐに父上に申し出て、実は一度ならず修復してもらったのだがなぜかうまく直らなくて。
作った当人が修復すればよいのかもしれないが、私のそれを作った職人は、私が生まれてからじきに亡くなってしまっているんだ。
ずっと気になっているのだが、父上がそのままでよいとおっしゃるので、今はそのままにしてある。
その小さな不具合を、夫人はこれまたどこからか知ったようで、それもまた私が皇子ではない証拠にしたいらしい。
作った人間こそ異なるが、どの兄弟のものもその当時随一の職人が手がけている、だからそもそも不具合が生じるはずはない、不具合が生じたというのは、私の持つそれが偽物だからだとね」
そういうことだったのか。
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