龍の宝珠 七 皇后が笑う。 「それより摘花、その、表に出たら道に迷ったって、家から一人で外出したということ?それはいつのお話なの」 「七つくらいのときです」 「七つ?まあ、まだ小さいときの話じゃないの」 「初めは、家の周囲を歩いていただけのつもりだったんです。ぐるりと回るだけなら大丈夫だろうと。そうしましたら、気付いたら街中の知らないところにおりまして」 「危ないじゃないの、さらわれでもしたら大変よ」 「いま振り返ってみますと、本当にそう思います」 「でも、いまあなたがここにこうしているということは、家には帰れたんでしょう?どうやって帰れたの。親が見つけてくれたの?」 「親も捜してくれましたが、その前に、……」 阿周のことに話が及びそうになり、摘花は慌ててそれを避けた。 趙修令に、阿周のことを話題にしないよう言われているのだ。 もっとも、それでなくともせっかく楽しそうな皇后の前で、亡くなった人のことを持ち出してしんみりさせる必要はないだろう。 「幸い、親切な方が声をかけてくれたんです。父の知り合い筋の方で、無事に家に帰れました」 「まあそうなの。よかったわね」 「はい、本当にお優しい方でした」 摘花は、本当に、に力をこめた。 「あなたは小さい頃から元気だったのね。あなたも耳にしているでしょうけど、聡影は幼い頃は本当に体が弱くて。あなたの父親とは別の心配を毎日していたのよ。しょっちゅう熱を出しては侍医を呼び、咳をしては薬を飲ませ、食欲がないと見たら何とか一口でも食べてもらおうと…」 皇后は、思い出したのかつらそうに首を振った。 「母上、今はもう大丈夫でございますよ」 聡影の言葉に、摘花もうなずいた。 「今はすっかりご健康におなりになって、よろしゅうございました」 「そうなのよそうなのよ」 皇后は、自らの言葉に何度もうなずく。 「小さい頃に体が弱くても、長じるにつれて丈夫になったというお話はわたしも聞いたことがございます。聡影さまもそういうお方だったんですね」 「ええ、ええ。きっとそうなのね。そうよね、そういう話はよく聞くものね」 「はい。わたしも長じるにつれて落ち着ければよかったんですけど…」 皇后と聡影は、顔を見合わせて笑った。 それを見た摘花は、ふと思った。 この二人は似ていないことに。 もっとも、聡影は父帝によく似ているから、母后にはさほど似ていないように見えるのだろう。 そのとき、不意に部屋の外が騒がしくなった。 聡影が顔をそちらに向けた。 「何でしょう?見てまいります」 と摘花は言って、廊下に通じる扉を開けた。 するとそこには、見たことのない女性がいたのだ。 身につけている色あざやかな衣装やきらびやかな装飾品からして、侍女などではない。 皇后の侍女たちは、女性の背後で困ったようにおろおろとしていた。 「皇后様は、いまは聡影さまとお話をなさっておいでなんです。お声をかけてまいりますので、どうぞあちらでお待ちに…」 「あらいいのよ、わたくしのことなどそんなに気にしないで」 「そうおっしゃいましても…」 女性は一見にこやかな笑顔で、だが侍女たちの困惑はまるで無視してどんどんこちらにやってくる。 そしてすぐに摘花に気付いて、にっこりほほ笑んだ。 「皇后様はこちらに?」 と、尋ねはしたが、彼女は返答など待たず摘花を押しのけると、勝手に部屋の中に足を踏み入れた。 その乱暴さに摘花が驚いて振り返ると、聡影が眉をひそめた様子が見えた。 皇后は女性のほうを見ようともせず、ただ窓だけをその目に映している。 聡影は椅子に座ったままでその女性に声をかけた。 「班夫人、よほど緊急のご用件なんでしょうね。こうして無礼なくらいに突然やってくるということは」 この女性が班夫人なのだ。 「ええ、そうなんですの」 班夫人は、ほほ、と笑う。 聡影はその笑いから顔をそむけて、摘花に開いていた扉を閉めるよう手で示した。 顔をそむけたときはうんざりしたような様子だったが、摘花には笑顔を向けてくれた。 自分がこの場にいてもいいのだろうかと摘花は思ったが、出るようにという指示は誰からもないので、ひとまず扉だけを閉めた。 「では早速聞きましょう、今日はどうなさったんですか」 「聡影さまが相変わらず宮中にいらっしゃると聞いたものですから」 「またそのお話ですか」 聡影が、あきれたと言わんばかりにため息をついた。 「皇子でもないのに、いつまでもこうしているわけですから、わたくしとしては気にせずにはいられません。しかもただの皇子ならまだしも、相も変わらずお世継ぎ然としてふるまわれて。これでは皆に示しがつきません。嘘は嘘と、早く正直に認めてどこへなりと行かれてはいかが」 聡影は面倒くさそうに反論した。 「私が父上の子でないと、夫人がそうおっしゃるのは結構です。好きなだけ口になさるとよろしいでしょう。ですがそれを誰も信じていない以上、それは夫人ご自身の見識を疑われることになりますよ」 「信じるも信じないも、事実でしょう。そうでなければ、なぜあなたのお母様はそんなに不安なお顔をなさるんです。嘘が明るみに出るのを恐れているんでしょう」 班夫人は、わざとらしく皇后に目をやった。 確かに皇后の顔色はだいぶすぐれない。 硬い表情で、ただ一点を見つめている。 なるほど、班夫人とはこういう人なのか、と摘花は自分の目で見て納得した。 こうして表面だけは友好的に、でも無作法にやってきては、一方的にぶしつけな持論を展開するのだ。 夫人の相手は聡影がしている。 皇后は、ただただ突然やってきた嵐に、抵抗せずただひたすらやり過ごそうとしている様子だ。 「皇后様ともあろうお方が、よくもまあ、いつまでも平然と嘘をおつきになっていらっしゃいますね。陛下までだましているとは。嘘でないとおっしゃるなら、“あれ”の不備をどう説明なさるおつもりなんです」 「またそのお話ですか。単なる不備は不備、仕方のないことです。私の保管の仕方が悪かったんです。これは父上もご存知のことです」 「保管の不備ごときで、あんなふうになるでしょうか。当代随一の職人に作らせたものなのに」 「確かに、私もそうは思います。ですが彼ももう鬼籍に入りましたからね、今となってはもうどうにも」 「その辺りの市井の職人に慌てて作らせたからこその不備なのでは、とわたくしなどは思うわけですのよ」 「そうですね、夫人がそう思われるのでしたらご自由に」 「皇后様はどうお思いになります?」 そこで班夫人は、皇后に対して話しかけた。 「皇后様ご自身が、一番よくご存じですよね。今ここにいるこのお方は聡影さまなどではないことを。“あのとき”に入れ替えて、他人の子供を聡影さまと偽っているだけだと」 すると皇后の顔色が、ますます青ざめる。 聡影が、淡々と答えた。 「仮に、本当にそうであれば、今頃父上が黙っていらっしゃるはずはございませんでしょうに。御自らのお子でない者を、こともあろうに世継ぎになど立てるはずはないでしょう」 「陛下は騙されているんですわ」 そこで班夫人は、憤慨したようにまくし立てた。 「なにしろ、趙修令も巻き込んでいるのですからね。日頃信頼している趙修令まで一緒になって陛下を騙していては、いくら陛下が英邁なお方とはいえ騙されてしまうのももっともです」 摘花は、班夫人の言い分を理解した。 聡影は皇帝の実子でない、という夫人の言い分。 それは、要するに聡影は誰か他人の子供であり、それをどこからか皇后がつれてきて、 「あのとき」に入れ替えて自らの生んだ皇子と偽っているのだというのだ。 そしてそれには、趙修令も一枚かんでいるというのだ。 聡影は皇子でないのだから早くどこへなりと追い出して、夫人の子息を世継ぎにしろというのだろう。 だが、理は聡影のほうにあると摘花は思った。 何しろ、当事者である皇帝が、班夫人の言を信じていないのだから。 信じていないどころか、気にもかけていないだろう。 少しでも気にかけたのであれば、少なくとも調査くらいはさせるだろう。 いくら趙修令を信用していたとしたって、かすかにでも班夫人の説に心当たりがあるならば、調べるくらいはさせるはずだ。 しかし、そんな話は聞いたことがない。 伝え聞くのは、皇帝は聡影に大変期待を寄せている、ということだけだ。 ただ少し気になるのは、夫人が言うところの「あのとき」、そして「“あれ”の不備」だ。 あの、とか、あれ、が何なのかはわからない。 その時期や不備の内容も、まったく見当はつかない。 ただ、「“あれ”の不備」に関しては、皇帝も承知しているのであればそれで解決済みのはずだ。 摘花が考え込んでいる中、班夫人が言葉を続けた。 「皇后様、お顔の色がよろしくございませんわね」 夫人は、それをにこやかに言い放った。 確かに皇后の顔色はますます悪くなっている。 早くこの場をなんとかしないと、倒れてしまいそうなほどだ。 「お心当たりがおありだからでは?」 「そうではございませんでしょう」 と言ったのは摘花だった。 摘花の声に、班夫人がこちらを振り返った。 「何の前触れもなくいきなりやってきて、あげくの果てに面と向かって失礼なことを言われては、誰しも気分が悪くなります。この無礼に対し、あえて無言でいらっしゃる皇后様のお優しさに、そろそろお気がつかれてはいかがですか」 班夫人の顔が険しくなった。 しかし、摘花はいっこうにひるまず続けた。 「いくら班夫人にもご自身なりのお考えがおありとはいえ、皇后様が何もおっしゃらないのをいいことに、さすがにお言葉が度を越してやいませんか。先程からご高説を拝聴しておりますと、『君子は泰(たい)にして驕(おご)らず、小人(しょうじん)は驕りて泰ならず(※)』の言葉が脳裏を横切ってやまないのです」 ※「子曰く、『君子は泰にして驕らず。小人は驕りて泰ならず』。」 [*前へ][次へ#] [戻る] |