龍の宝珠 四 屋敷に戻り、新たな自室に入った摘花は、懐から小さな錦の袋を取り出した。 そしてその口を開け、手のひらの上で傾けた。 中からは、美しい水晶の玉が転がり落ちた。 それは阿周のものだった。 まさに亡くなる前日。 屋敷を訪れ、部屋に案内されたはいいが、阿周は部屋にいなかった。 「坊っちゃまはいま、旦那さまに呼ばれているの。すぐに戻ると思うから、こちらで待っていなさいね」 と侍女に言われたので、摘花は絹張りのふかふかの椅子に座っておとなしく待っていようと思った。 その椅子は座面にたくさん綿が入っていたのかとても柔らかな座り心地で、摘花のお気に入りの椅子だった。 摘花のお気に入りということを阿周もよく知っていて、これは摘花の椅子だねとよく言っていたものだ。 小さかった自分が、椅子にちんまりと座っていた様子は、おかしかったらしい。 床に届かない足をぷらぷらとさせたり、はたまた無理に足を床につけようとがんばっているのを見ては、阿周はよく笑っていた そのときも摘花は、お気に入りの椅子にいつものようによいしょと腰を下ろそうとした。 すると赤い座面と背もたれの間に何か光るものが落ちているのを見つけたのだ。 小さな丸い水晶。 すぐにわかった。 この水晶玉は、阿周が持っている短剣の鞘の飾りだと。 阿周は立派な短剣を持っていた。 お守りのように大事にしていた。 なんでも、他人には決して見せるなと父親である趙修令にきつく言い渡されていたそうだが、摘花には見せてくれたのだ。 つややかな白玉の柄。 黄金の鞘には、龍の浮き彫り。 一度見たら忘れられない輝きだった。 摘花はあれを超えるうるわしい剣をいまだ見たことがない。 そして龍はその手に、小さいけれどもこれまた美しい水晶を握っていた。 その水晶だ。 はめこまれていたのが、何かの拍子に外れてしまったのだ。 そういえば、その前日に摘花がせがんで、その剣を見せてもらったばかりだった。 そのときに、気付かないうちに外れてしまったのだ。 拾い上げてそのまま手に握っていればよかったのに、大切に扱いたかった自分は、持っていた手拭き用の布でわざわざご丁寧にくるんで、いったん袖の中にしまいこんでしまったのだ。 阿周が来たら渡そうと思ったのに、待ってもなかなか来なかった。 そのせいもあって、阿周の顔を見たらすぐに忘れてしまったのだ。 阿周さま阿周さまと、まとわりつくばかりで。 家に帰って思い出して、明日こそちゃんと返そうと思ったのだ。 それなのに。 まさか、形見となってしまうなんて。 趙修令に渡そうと思ったのだが、なんとなく渡しづらくてそれきりになってしまった。 自分が短剣を見せてもらったことは、決して言うわけにはいかないのだ。 短剣のことには触れずに、ただ、もしかしたらこれは阿周のものでは?と話せばよかったのだと気付いたのは、少し大きくなってからのことだった。 だがそうなると、いまさらのことでますます言い出せなかった。 趙修令には、いつでも連絡は取れたにもかかわらず。 それに何より、唯一の形見を手放したくはなかったのだ。 ああ、あの短剣自体はどうなったのだろうか。 墓に一緒におさめたのだろうか。 宝珠を持っていない龍。 その手から落としてしまった美しい龍。 「絶対に誰にも見せてはいけないって、父上に厳しく言われているんだ。でも、摘花にだけは見せてあげるね。見たことは誰にも内緒だよ」 わかってる。 自分は今までもこれからも、決して誰にも話さない。 だからこれも、誰にも見せまい。 必ず大事に持っていよう。 水晶を眺めていると、阿周の笑顔が見えるような気がした。 数日後、摘花は早速宮中に向かい、皇后に面会することになった。 趙修令がわざわざ付き添ってきてくれたのは、彼が本当に皇后のことを心配しているからのように思えた。 一緒の馬車で宮中に向かう途中、趙修令は摘花に、摘花が父親から聞いたようなことを話して聞かせた。 「おまえの父親から聞いているとは思うが、皇后様のご気分がふさぎがちなのは、班夫人というお方のせいなのだ」 「はい、聞いています。なんでも、聡影さまは陛下のご実子ではないととんでもないことをおっしゃっているとか?」 「さよう。まったく困ったお方だ」 趙修令は難しい顔で首を振る。 「まあ、おまえには関係のないことだが、一応はこういうことがあると心に留めておいてほしい。そうそれで、これはおまえに関係があることなんだが」 趙修令は、そこで摘花に言った。 「阿周のことだ」 「阿周さまの?」 突然、予想だにしなかったところで阿周の名前を聞いて摘花は驚いた。 「阿周さまがどうかなさったのですか?」 「いや、阿周のことを、皇后様の前では話題に出さないでほしいのだ」 「え…?」 急にどうしたのかと思う摘花に、趙修令はすぐにその理由を話してくれた。 「というのは、阿周の件は皇后様もご承知で、死んだときはとても悲しんでくださったのだ。生きておれば、阿周は聡影さまと同い年だ。それもあってか、あの時はもったいないほど哀れんでくださった。 なんと、それは今でもそうなのだ。わしを見るといまだによく夭折した阿周のことを持ち出され、嘆いてくださるのだ。ありがたいことではあるが、わしとしては、いまだに皇后様を悲しませることが心苦しくてならない。 今はそれでなくともお心が弱くなっていらっしゃるのだ。 皇后様との会話の中で、もしかしたら、阿周に話が及ぶかもしれない。だが、なるべくそれは避けてほしい。わしの息子のことで、皇后様をいたずらに嘆かせたくはないのだ」 なるほど、と摘花は思った。 不安定な皇后の心を、亡くなった人のことで思いわずらわせることはあるまい。 「わかりました」 摘花がうなずくと、趙修令はほほ笑んでうなずいた。 宮中に着くと、二人は皇后の住まいに向かい、ひとまず別の部屋で対面を待った。 ところが、急にまず趙修令だけが皇后に呼ばれたのだ。 「どうしたのだろうか?では行ってくるから、おまえはここで待っていなさい」 趙修令は心配そうに部屋を出て行った。 残された摘花は、しばらくは部屋の中でじっと趙修令を待っていた。 初めは室内の調度品を眺めたり窓から庭を見やったりしていたが、だいぶ待っても誰もやってこない。 廊下に面した扉をそっと開けても、誰もいない。 室内の大きな窓は、そこから庭に直接出られるようになっていた。 その窓を開けた摘花は、ちょっとだけ外に出て庭を見てみようと思ったのだ。 さすが宮中のしかも皇后の住まっている場所は、庭の手入れもとてもよく行き届いている。 だが、きれいに咲く花を追って庭を歩いているうちに、気付くと摘花は、自分がどこにいるのかわからなくなってしまっていたのだ。 これはさすがに困った、と摘花の背中を冷や汗が伝った。 もしかしたら今頃、自分を呼びに人が来ているかもしれない。 いないとなったら大騒ぎだ。 早く戻りたくても、周囲は全部立派な常緑樹で、変わった形の大岩がいくつかそばに並んでいるだけだ。 どこがどこやらさっぱりわからない。 だがその岩の向こうに建物の屋根が見えたので、摘花はすぐにほっとした。 あの屋根の建物に戻ればいいと思ったのだ。 しかし、近づくとそれはどうも先程とは違う建物らしいことがわかった。 摘花は顔が青ざめた。 ここは一体どこだろう? しかも、思い返せばだいぶ歩いてきたような気がするのだ。 自分は、もしかしてまったく見当違いの方角に歩いてきてしまったのではないだろうか。 とにかく、人を探そう。 人を探して、事情を話せば何とかなるだろう。 どんなに歩いたとしても、ここは宮中なのだから、趙修令のことを知らない人はいないだろう。 趙修令の名を出して説明すれば、きっと何とかしてくれる、はずだ。 そう思った摘花は、取りあえず目の前にある建物に近づいてみた。 それはとても立派で重厚な作りで、なにより中からは人の気配がした。 無人ではないことに、摘花はほっとした。 [*前へ][次へ#] [戻る] |