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月下のぬくもり
三十四
皇帝について戻った桂秋は、室内に入るとほっとため息をついた。
明るいところで改めて皇帝を見るとすっかりもういつもの様子で、顔色もよい。
軽やかに長椅子に腰を下ろす様子も普段どおりで、桂秋は安堵した。
だがそれから皇帝は桂秋に手招きをすると、隣に座るよう言ったのだ。

「い、いえ、わたしは結構です」
「なぜ?」
「なぜ?…って?」
桂秋は思わず赤くなった。
皇帝は自分の胸元を示した。
「さっきまでここで泣いていたのに?」
「……」
桂秋がさらに頬を赤らめると、皇帝は笑い出した。

「まあいい」
それから皇帝は、詳しく話してくれた。
毒を盛っていたのはどこの誰かを改めて調べさせると、宋紅芭の実父について、経歴が詳細にはわからないことが判明したこと。
それを強引に調べてようやくわかったこと。

命を狙うことが目的なのは明らかなのだから、皇帝が快復してしまった以上きっといつか別の形で命を奪おうとするに違いないこと。
いつになるかわからないそれを待つくらいなら逆にそそのかそうと思い、宴を開くことにしたら、その通り宴に合わせるように毒を手に入れたことがわかり、それをすり替えておいたこと。
すり替えた薬は陸仙強が選んだこと。
すなわち、陸仙強もそしてまた蘇朔も、今日のこの話は承知していたこと。

「おまえにも話したかったんだが、おまえはよく宋紅芭に呼ばれていたから、そこから感づかれてしまうかと思って」
「そうですか…」
それはそうかもしれないと桂秋は納得した。

だが、だからこそ紅芭は、父親のことを気にかけてくれていたのだ。
死んでしまった実父に比べて、幸いまだ生きているのだから。
「あの…」
「どうした?」
「それで紅芭さまは、どうなるのでしょう…」
すると、逆に皇帝から尋ね返されたのだ。
「おまえはどうしてほしい?」

皇帝の命を狙ったなんて、わかった時点で即刻死罪だ。
理由の如何など関係ない。
だが結局、すべて未遂に終わったのだ。
皇帝をあれだけ苦しめた罰は受けてほしいと思う。
しかしその際、父親の不幸な出来事を斟酌してもらえないだろうか。

そう話すと、皇帝はほほ笑んだ。
「そうだな。こうして俺は結局無事なんだし、俺を恨む気持ちもわかるわけだし、おそらくは宮中から追放…都から放逐ということになるだろう。おまえに罪を着せようとした件は?」
「それは別に…わたしは何とも思っておりませんから」
「あんな形で人前で罪をなすりつけられたあげく、一時とはいえ牢に押し込められてしまっても?」
「平気です。それにすぐ曜和さまがいらしてくださいましたから」
「……おまえは優しいな」

桂秋は首を振った。
だがそのとき不意に、涙がこみ上げてきてしまったのだ。

「桂秋?」
「……わたしはただ、曜和さまがご無事でいらしたこと、それだけで」
涙をこらえようとすると、声が震える。
「それだけで、ようございました……」
皇帝は腰を浮かせると、傍らにいた桂秋を抱き寄せた。
そしてそのまま腰を下ろしなおし、隣に桂秋も座らせ、改めて強く抱き締めた。

皇帝の腕の中は今もあたたかい。
間違いなく、生きていることがわかる。
「心配をかけてすまなかった。もう大丈夫」
桂秋はうなずいた。
うなずいた拍子に、こらえていた涙があふれだす。
「曜和さま…」

皇帝は、桂秋をしっかり抱き寄せた。
そしてその背中を何度もなでた。
その手からはぬくもりと、優しさが伝わってくる。

桂秋の涙が落ち着くまで、皇帝はただじっと桂秋を抱き締めてくれていた。

腕の中のあたたかさに、やがて桂秋の涙が収まると、それを感じたのか耳元で皇帝の声がした。
「それで、問題はおまえだ」
「わたし…ですか?」
桂秋は、涙の残る顔を上げた。
「おまえはこれからどうする?」
「え…?」
皇帝の手が、桂秋の目元の涙をおさえる。
それに桂秋が顔を伏せてしまうと、言葉はその頭上から続いた。
「陸仙強から聞いたぞ。ここを辞めるだのなんだのと言ったそうだな」
「……」

桂秋は、皇帝から体を離そうとした。
だがそうしようとすると、逆にさらに抱き寄せられてしまった。
「辞めるなんてそんなこと、誰が許すと思っている」
「で、でも…」
「でも、じゃない」
皇帝の腕に力が加わる。
「俺の具合がよくなったからか?だからもう辞めるなんて、絶対に許さないからな。ずっとここにいるように。俺のそばにいて、俺の世話をするように、これは命令だ。…ああ、もちろん」
そこで皇帝はふっと力を緩めると、桂秋の肩をつかんでその顔を見つめた。
「医者としてではなく。医者なんぞ一人いれば十分だ」
「……」
「どういう意味かって?」
桂秋が目を伏せると、皇帝は小さくほほ笑んだ。
あたたかな手が、桂秋の頬に優しく触れる。
涙のあとをぬぐってくれる。

皇帝はそのまま、桂秋の頬を押さえた。
そしてその口元に、自分のくちびるをそっと寄せた。
桂秋の顔が赤く染まる。

「……こういう意味だ」
「……」
「おまえには二度と心配はかけない。悲しい顔もさせない。だから」
皇帝は、再度桂秋を抱き寄せた。
「どうかそばにいてほしい」
「曜和さま…」
「母親が心配しているということも聞いた。確かにそうだろう。医者に弟子入りしただけでも相当困っていただろうに、ある日宮中に行ったかと思えば突然皇帝に引き止められてそれっきりじゃな。嫁ぎ先を探しているということも聞いた。
……後宮の女たちは、全員実家に帰す。おまえ一人いれば、俺には十分すぎるのだから。おまえを迎え入れたいと、明日にでもおまえの家にきちんと使者を立てよう。そうすれば、おまえの両親もおまえのことをこころよく送り出してくれるだろうか……」
「……曜和さま」
桂秋は頬を赤く染めたままほほ笑んだ。
「そのお気づかいだけで十分でございます」
「……」
「どうかこれからもずっと曜和さまのおそばで、曜和さまのお世話をさせてくださいませ」


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