月下のぬくもり 三十三 「ど、どうして…?」 紅芭の言葉に、桂秋も驚いた。 皇帝が、今ここにいるなんてことがあるだろうか。 だが、桂秋の目にもすぐに、皇帝がやってきた様子が映ったのだ。 土の廊下をゆっくりと歩いてきた。 逆光になっているのは、背後からいくつかの明かりに照らし出されているからだ。 先程とは異なる衣装を身にまとっているようだ。 顔色まではよく見えないが、その足取りはしっかりしている。 「全部聞いたよ紅芭」 そういう声も、力のあるものだった。 「もっとも聞く前にわかっていたが。宋家の人間は口が堅い。これは勅命だと言ってようやく口を割らせた。まあ、かなりの金も積んだようだが」 「勅命…」 「初めに調べたとき、おまえの周辺には怪しいところはまったくなかった。ただ一つ、おまえの実父のことがよくわからないという点を除いて。 それで調べさせてようやく、実父の件がわかった。 そのことを踏まえて改めておまえの周囲を詳しく調べさせると、機州にしかないという毒草をおまえが手に入れていたということや、その証拠を跡形もなく始末したことがわかった。だからまあ、これに関しては明確な証拠はないわけだ。 だが今夜のことは証拠がある。おまえが毒を仕込む準備をしていたことがわかったから、別の薬とすり替えておいた。自分で準備した毒を見たいか?猛毒だそうだな」 「……」 皇帝は、紅芭に静かに話しかけた。 「おまえの父親の件は、本当にすまないことをした…。だが、何度そう言っても、きっと今のおまえの胸には届かないのだろう。確かにいまさら俺が何を言おうと、おまえの父親は帰ってこない。 俺を恨んで気が済むなら、恨むといい。その恨みや憎しみは、俺は引き受ける。その末に殺されても仕方がないと思う。だから、俺に毒を盛ったことはどうでもいい。結果として無事だったのだし、何も問うまい。だが」 そこで皇帝は桂秋を示した。 そして、強く言い切った。 「それを、彼女になすりつけようとしたことだけは許せない」 静かだが厳しく、重い声だった。 怒気に満ちた声だった。 皇帝は、背後にいた人間に紅芭を連れて行くよう命じた。 明かりを持っていた人間が近づいてきて、紅芭を両脇から抱えるようにして去っていく。 明かりが去るのを見つめた後、皇帝は手にしていたらしい鍵を取り出した。 「遅くなってすまなかった」 鍵を使って格子の扉を開けてくれる。 だが扉が開いても、桂秋はその場に立ち尽くしていた。 「桂秋?早く」 「……曜和さま?」 「ああ、そうだよ。どうした?」 「……」 「おまえ、いまの話を聞いていただろう?毒をすり替えておいたんだ」 皇帝は笑いながら手を伸ばすと、桂秋の腕を取って外へと連れ出した。 その手はあたたかい。 「陸仙強が言うには、いっとき失神する薬だそうだ。あとは危篤という知らせをいったん流しただけだ」 「さようでございますか…」 一瞬失神状態になる薬がある、というのは桂秋も知っていた。 だがそう言われても、状況がまだよくとらえられない。 「化けて出たかと思ったか。そう思うなら、脈でも取ってみろ」 その言葉にはなるほどと思った桂秋は、差し出された皇帝の手首を取ってみた。 だがそうしようとすると、次の瞬間には皇帝に抱き寄せられていたのだ。 「いちいち脈を取るより、こうしたほうが早いだろう」 二本の腕が、自分をしっかり包むのがわかる。 絹の衣装の奥から、しっかりとした鼓動が感じられる。 全身にぬくもりが伝わってくる。 背中に腕を回してみると、そこも確かにあたたかい。 耳元で、しっかりとした声がした。 「俺は大丈夫」 「……曜和さま?」 抱き寄せる腕に力が加わる。 「大丈夫」 そこで桂秋はようやく、安心したのが自分でもわかった。 そして、自分でも知らないうちに涙があふれてきた。 「……ようございました。どうなることかと……」 「おまえには不愉快な思いをさせてしまった」 桂秋は首を振る。 その桂秋の涙を、皇帝は自分の袖でぬぐってやった。 だが涙はあとからあとからこぼれ落ちる。 仕方がないな、と皇帝は笑って言い、桂秋の顔を自分の胸に押し付けるように抱きしめた。 「こんなところにいつまでもいるものではない。早く戻ろう」 その言葉に桂秋は、涙をおさえつつ外に出た。 暗い中にいたせいか、月がひときわ明るく感じられる。 牢を出たときからずっと、皇帝は桂秋の肩をしっかりと抱いている。 桂秋が、その明るさに吸い寄せられるように月を見上げると、皇帝は足を止め、桂秋を見やって笑った。 「また後で二人で見ようと言っただろう?」 「……はい」 桂秋も笑ってうなずいた。 その桂秋のほうに皇帝は手を伸ばしてきたかと思うと、頬を指先でぬぐった。 土が少しついていたようだ。 その指先のあたたかさに、桂秋が赤くなると、その様子に皇帝は今も笑った。 [*前へ][次へ#] [戻る] |