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月下のぬくもり
三十二
桂秋が連れて来られたのは、宮中の片隅にある牢獄だった。
気がつくと、目の前には格子戸があって、自分は小さな独房の中で座り込んでいた。
土の床はほこりっぽい。
格子の向こうにやはり土の廊下があって、独房はいくつか並んでいるようだ。
だが他に人の気配はない。
周囲に灯がない割りには薄明るい。
それは天井近くにある小さな窓から、月の姿が見えているからだった。

何が起きたのか、桂秋は必死で頭を整理しようとしたが、混乱してよくわからなかった。
ただわかったことは、宋紅芭が皇帝を殺そうとしたこと。
そしてその罪を、自分になすりつけたことだった。

皇帝の手首にかすかに触れたとき、そこにはまだ脈はあった。
だがあれからどうなったのだろう。
助かっていればいいのだが。
いや、必ず助かるはずだ。
だが長い間毒に苦しめられた体は、よくなったとはいってもまだ普通の人よりは弱っているだろう。
普通の人ならば助かるとしても、もしかしたら、……。

そこまで考えた桂秋は、息ができなくなるほどの不安感に襲われた。
それで慌てて深呼吸をし、首を振った。
いや、大丈夫。
そんなことはない。
ずっと耐えてきた人なのだから、今度だって大丈夫なはずだ。

小さな窓から見える月を、桂秋はじっと見上げた。
またあとでゆっくりと見よう、そう言ったではないか。

二人でゆっくりと見よう、と。

するとそのとき、外からかちゃかちゃという金属音がしたのだ。
錠を開ける音だ。
ついで、誰かがこちらにやってくる足音がした。
足音は一人。

それは、宋紅芭だった。
先程、宴に出ていたときのままの華やかな装いに身を包んでいる。
格子の向こうで、紅芭はほほ笑んだ。
「かわいそうに、こんなところに入れられてしまって」
「……」
桂秋は立ち上がった。
「陛下の具合はよくないそうよ。ご危篤の状態ですって。意識も戻らず、今夜が峠でしょうって。陸先生と、あともうお一人先生がついてはいらっしゃるけど、どんな名医でももう駄目よ」
紅芭は笑った。
「もっとも私としては、即死でないことに驚いているのだけど」
「紅芭さま…」
「ずっと食べ物やお酒に毒を混ぜ続けてきて、もうすぐと思ったのにあなたが気付いてしまって。あの毒の正体に気づいたのはあなたと聞いたわ。
どうしようかと思ったけど、あなたになすりつければいいと気付いて方針を変えたの。
陛下だって私の手にかかるより、かわいがっているあなたの手にかかったほうがお幸せでしょう。これはせめてもの慰めよ」
桂秋は格子を両手でつかむと、それを握り締めた。
「どうしてそんなことを!」
「あなたと同じよ」
「わたしと同じ?どういうことですか!」
「私の父も、先の陛下のせいで死んだの。都に赴任したあと、上役にあたる方が死に値する罪を犯したの。ううん、犯したとされたの。本当はそんなことないのに。父はね、それに連座して死罪になったの」
「……」
「父は全然偉くなんてなかったのよ。本当に小役人だったの。そんな役人一人が、いったい何をしたというの?残された身内から見たら、言いがかりをつけられて殺されたも同然だわ。そうでしょう?」
「……だから曜和さまを?」
「そう」
紅芭はきっぱりとうなずいた。
そこには何の迷いも感じられなかった。
「先の陛下は亡くなったけれど、あとを継いだ方がいらっしゃる。じゃあその方に恨みも怒りも継いでいただかないと」
「どうしてそうお考えになるんです!曜和さまには関係のないことでございます」
「あなたがそう考えられるのは、きっとあなたのお父さまが生きていらっしゃるからだわ」
「……」

「先の陛下を恨んだけれど、私にはどうしようもないことだった。そこへ、本家が私を養女にしたいと言ってきたの。後宮に入れるためにね。そのお話はだいぶ前からあったのだけど、父が反対していて。だけどそれは、私にとっては渡りに船だったわ。
初めは先帝にと思っていたらしいけど、準備をしている最中に先帝が崩御なさったので、それではといまの陛下のもとに送ったの。
養父はね、おまえは美しいからきっと陛下のご寵愛を得られるだろうと言ったわ。それは私にも願ってもないことだった。長い時間おそばにいれば、それだけ毒を盛る機会も増えるもの。
まあ、入ってみたらそううまくはいかなかったけれど、時々いらしてくだされば私にはそれで十分だった。養父は、もっとご寵愛を得られるように努力しろと言っているみたいだけれどね。
養父は、私を後宮に入れるために父のことは隠したのよ。いまもそう、必死で封印している。だって実父が先帝のせいで死罪になっているなんて知れたら、さすがに後宮入りはかなわないでしょう。どんなに調べたってわからないわ。宋家が一族を挙げて隠しているの」

だから何もわからなかったのだ、と桂秋は察した。
この女性に、皇帝を恨むような動機は何もないとされたのだから。

「これだけ知って、さああなたは何をする?いずれにせよ証拠は何もないわ。わたしがここで話したって言っても無駄よ。わたしは何も言っていないと、そう言い張ればそれでおしまい」
紅芭は楽しそうに続けた。
「あなたが気付いたあの毒薬のことだって、もう証拠はどこにもないしね。ああ、そうよ。そもそもあなたはこんなところにいるのだもの、何もできやしないわね。
陛下の崩御も明日には発表されるでしょう。私はもう実家に帰るわ。父だってこれで喜んでいるでしょう」
「こんなことをなさって、お父さまは本当にお喜びだと思いますか?それでお父さまは本当に喜んでいらっしゃると」
「私は父の かたき をとれたのよ」
「こんなことが かたき であるはずございません。用州に赴任していたことのある父から聞きました。紅芭さまのお父さまは、紅芭さまのことをとてもかわいがっていらしたと。掌中の珠のごとくかわいがっていらしたと。
後宮に上がるのを反対なさっていらしたのだって、紅芭さまのことを大事になさっていらしたからでは?後宮に上がって、何人もの方と寵愛を奪い合うなんて、していただきたくなかったのでは」
桂秋がそう言うと、紅芭は黙ってしまった。

「曜和さまを恨みたくなるのはわかります。確かにわたしだって、もしも父が亡くなっていたら、どう考えていたかはわかりません。でも曜和さまを間近でご覧になれば、曜和さまがそのことでどんなにお苦しみでいらしたか、おわかりになるはずです」
「……さあ、私には何もわからなかったわ」
「それは紅芭さまにはおかわいそうなことをなさいました。おわかりになれば、こんなことはなさらないで済んだかもしれないのに。
罪はわたしがかぶります。ですが紅芭さまは今後ずっと、曜和さまをあやめたという事実を背負って生きていくことになるでしょう。たとえ誰も知らなくても、そしてそれがいくらお父さまのためだと言っても、かたきを討ったと言い換えても、なさったことは同じです。……ご自分のせいでこんなことをなさってしまったなんて、お父さまがお知りになったら、どう思われるか」
「もういいわ」
紅芭は桂秋に背を向けた。

「あなたとは話にならないようね。もう少し物分かりのいい子だと思っていたけれど」
「紅芭さま!」
だが、次の瞬間紅芭は、びくっと体を震わせたのだ。
それは、そこに別の人間がやってきたことに気付いたからだったが、それだけではなかった。

「陛下?」
紅芭はそう言って、その場で立ち尽くしてしまったのだ。


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