[携帯モード] [URL送信]

月下のぬくもり
三十
さすがにもう、と思った桂秋は下がりかけたのだが、そのとき別の視線を感じたような気がしてふと顔を上げた。

それは、ここからだと奥にいる宋紅芭だった。
彼女は、ほほ笑んで桂秋を見つめていたのだ。
そこには敵意や嫉妬など微塵も感じられない。
それは逆に不思議なくらいで、桂秋は思わずまじまじと見つめ返してしまった。
だがそのとき、皇帝に呼び止められたのだ。
「どこへ行く。まだここにいろ。舞が始まるから」
「舞?」

続いて舞姫がたくさん出てきて、音楽に合わせて優雅に舞い始めた。
肩にはおっている薄布が空気をはらんで軽やかに動く。
舞姫たちの動きはとても美しく、桂秋は下がろうとしたことも忘れて思わず見ほれてしまうほどだった。
言葉もなく見つめていて、終わったときに一座から起こった拍手で我に返ったような気がしたほどだった。
ほうっとため息をつくと、皇帝が尋ねた。

「よかったか?」
「はい」
桂秋は大きくうなずいた。
「とても素敵でございました。舞は一日見ていても飽きません」
皇帝は、何かに納得したように満足げにうなずいた。
「そうか、おまえは舞が好きか」
「以前、家でもよく小さな宴を催しておりまして、その際によく舞を見たことがございます。いつ見てもそれはそれは素敵で、舞姫になりたいと母に申してたしなめられました。それを思い出しました」
「舞姫に?」
皇帝は笑う。
「それよりおまえの父親は、おまえも宴に参加させていたのか?それはおまえの父親が官僚だったころの話だろう。仲間を招いての宴会では」
「あ、ええ、そうです。わたしは物陰からのぞき見です…。それもまた母を怒らせまして」
「それは…。おまえは意外と困った娘だったんだな」
皇帝が桂秋の言葉に楽しそうに笑うのを、一座の人間が見つめている。
「医者に弟子入りしたいと言ったりな。それも相当困らせただろう」
桂秋はきっぱりとうなずいた。
その様子にも皇帝は笑う。
それを見た桂秋も笑ってしまったが、慌てて目を伏せた。

皇帝が笑っているのを見るのはとてもうれしい。
このままでそばで笑顔を見ていたい。

だが、皆が自分に注目しているのだ。
ここにいたいのはやまやまだが、あまりいつまでもいてはならないだろう。
でも下がろうとすると引き止められる。
どうしたらいいだろう。

桂秋の様子に気付いたのか、皇帝も口を閉じるといったん桂秋から目をそらし、この日初めて杯を手にした。
「飲んでも?」
「少しでしたらどうぞ」
「そうか…」

皇帝が杯を傾ける間に、桂秋は今度こそ後ろに下がろうとした。
そうすると皇帝は、杯をくっと飲み干したかと思うと、空の杯を桂秋に差し出したのだ。
つげということだ。
桂秋は、仕方なくそばにいた侍女から酒器を受け取ろうとした。
しかし、侍女の酒器は空だったらしい。
慌てたその侍女に、新しい酒器を手渡したのは宋紅芭だった。
侍女を呼び寄せながら、早くこちらを、と口が動くのが見える。
ありがとうございますと侍女が言う。
その侍女から酒器を受け取りつつ、桂秋は奥にいる宋紅芭に対しても一礼した。
紅芭はやはりほほ笑んでいる。

「わたしがおつぎするのはこの杯だけでございますよ。おかげさまで十分に楽しませていただきました。もう結構でございます。後ろにおりますから、何かございますときだけお声をおかけください」
桂秋がついだ酒を、皇帝は笑いながら口元に運んだ。
「はいはい。そうだな、ここにいては落ち着かないだろう。もう下がっていなさい。今はおまえが舞が好きなことがわかってよかった」
「え…?」
自分が何を好きか、それを知りたいなんて。

「……曜和さま。わたしが何を好もうが、曜和さまにはお気になさる必要のないことでございます。曜和さまは、ただご自分のお好きなものだけをお求めくださいませ」
「はいはいはい。おまえの言うとおりだ」
皇帝は笑う。
「じゃあまた改めて――」

改めて、何をしようというのか。

それを聞く前に、桂秋の目には、皇帝の手から杯がすべり落ちる様子が映った。
膝の上で一回弾んだ杯は、床に落ちて高い音を立てて割れた。

「曜和さま?」

皇帝の体が、椅子から崩れ落ちて床に倒れた。
床に倒れた体は、そのまま動かなかった。

女性の悲鳴が響き渡った。


[*前へ][次へ#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!