月下のぬくもり 弐 最後尾にいた桂秋がそっと部屋の中に入ったところで、扉が外から閉まった。 「曜和さま、お話し申し上げていた医者を連れてまいりました」 と、陸仙強が声をかけたところで、青年は面倒くさそうにこちらを見やった。 ただ、面倒くさそうではあるが不機嫌そうではない。 「そこまでしてくれなくともよかったのに」 そう言いながら向けられた顔を見て、桂秋はまず、その顔色が特に悪くはないことを確認した。 だがその皇帝は、桂秋を見て少し驚いたような顔をした。 「その娘は?」 「蘇朔の助手でございます。助手も連れてくるというお話は申し上げたはずですが」 「ああ、それは聞いたが。ふうん、まさかそんな若い娘とは」 「では曜和さま、さっそくでございますが、これがその蘇朔でございます。わたくしなどよりはるかに優秀でございまして、彼なら曜和さまの体調不良の原因も判別できるかと」 「体調不良ね。別にたいしたことはないのに、皆が騒ぎすぎなんだ。放っておけばそのうち治る」 「曜和さま、そういうわけには参らないのでございます」 「蘇朔と申します。お目にかかれて光栄に存じ上げます」 蘇朔が丁寧に挨拶を始めると、皇帝は一応はそれを受ける。 そして、ではさっそくでございますがお脈を、と言うと、素直に脈は取らせる。 表情を変えずに脈を診ている蘇朔に、皇帝は声をかける。 「なんともないだろう」 「陸仙強の申すところによりますと、時折息苦しさをお感じになるそうでございますな。それに頭痛やめまいを伴うこともおありだとか」 「時々な。薬を飲めばすぐにおさまる」 「さようでございますか。確かに、少しお脈が乱れているようでございますが…」 「皆おおげさなんだ。日々生きていれば、誰しも多少の不調はあるものだ。いちいち気にすることではない」 そう悠長に話す皇帝から、蘇朔はそっと手を離した。 だがそのとき、わずかに表情が変わったことに桂秋は気付いた。 何か思い当たったのだろうか。 心配そうに見守る陸仙強に、皇帝は言った。 「陸仙強、俺はおまえに任せているのだから、わざわざ他の誰かを呼んでまで診てもらわなくとも大丈夫」 「ですが、曜和さまにもしものことがあってはなりませぬ」 「俺に何かあっても、弟がいるから大丈夫」 「そういう問題ではございません」 陸仙強は語気を強める。 「曜和さま、もう少しご自愛なさってくださいませ。曜和さまのお体は、曜和さまお一人のものではないのでございますよ」 「ああはいはい」 皇帝は笑って受け流した。 「それより蘇朔といったな。普段は町で開業しているとか。陸仙強の話によると、とても繁盛しているそうだな」 「はい。ですが、医者は繁盛してはいけません。病人や怪我人は少ないに越したことは」 「なるほど」 蘇朔の言葉に、皇帝はその通りだとうなずく。 診立てもそこそこに、皇帝は蘇朔の話を聞きたがった。 請われるがままに日々の話をすると、それに皇帝は興味深そうに耳を傾ける。 診立てに来たというよりも、単に話をしに来ただけのようであった。 蘇朔の弟子と聞いたからだろう、その場にいた桂秋にも時々声が掛かる。 それはよかったのだが、桂秋が気になったのは、自らの身体に関することにはまるで他人事のようだった皇帝が、それ以外の話には興味深そうに聞き入り、時に真剣に質問をしたり意見を言ったりするのだ。 市井の話を聞きたいようだった。 自分の体調よりも、下々の民の暮らしぶりのほうが関心があるようだった。 確かに今の皇帝は、庶民のことをよく考えてくれていると人々の間で人気がある。 蘇朔のもとにやってくる患者たちも、毎日そう言っている。 そんな皇帝の日々の一端を、桂秋は少しだけのぞいたような気がした。 しかしそれはともかく、自らの健康に関心を持っていないのは問題だ。 いくら侍医が常にそばにいるとはいえ、病を治すのは本人なのに。 治そうと思わなければ、治るものも治るまい。 結局、人がやってきて皇帝に来客を告げるまで、蘇朔は引き止められた。 「陛下、劉大臣が参りました」 「ああ、そうか。じゃあ蘇朔、今日はこのへんで。また呼ぶかもしれん。話を聞きたい」 その言葉に陸仙強が顔をしかめた。 「曜和さま、彼をお呼びになるのであれば、お話相手ではなく医者としてお呼びください」 それに皇帝は笑った。 「医者はおまえがいるのだからいいだろう」 先程の言葉からも、皇帝は侍医のことを大変信頼しているようだった。 信頼して、任せているようだった。 侍医としてやりがいはあろうが、あまりにすべてを任せっきりなのは問題だろう、と桂秋は思う。 皇帝はどうも、自ら病を治す気にはまったくなっていないようなのだ。 現に陸仙強も、ほとほと困ったように肩を落とした。 「曜和さま、それは大変にありがたいお言葉ではございますが…」 その様子を見たからなのか、皇帝はふと何かを思いついたようだった。 思いついたように、桂秋を見やったのだ。 目が合った桂秋が、どうかしたのかと思ったとき。 「そうだ。じゃあこうしよう。そんなに俺のことが心配なら、その娘を置いていけ」 「は?」 と言ったのは陸仙強だ。 「助手ということは、医術の心得はあるのだろう?」 その質問は、桂秋自身に向けられたものだったが、答えたのは蘇朔だった。 「まだまだではございますが、多少の知識は仕込んだつもりでございます」 「十分だ。そもそもが男に診てもらうよりは、若い娘がそばにいたほうが体調もよくなろうというものだ」 皇帝は笑いながら言い放った。 桂秋は目を丸くした。 「曜和さま!」 悲鳴を上げた陸仙強を制したのは蘇朔だった。 「陛下さえよろしければ、この子を置いてまいります。この子は大変真面目な子です。陛下のお邪魔をいたすようなことはございません。少しでも陛下のお役に立てればわたくしも幸いでございます」 「そうか?じゃあ、師がそう言うのであれば決まりだ」 急に何を言い出すのだろう? 皇帝の発言に驚いていた桂秋だったが、蘇朔までがそう言うからには、何か理由があるのだろう。 そう思った桂秋は、ひとまずは何も言わなかった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |