月下のぬくもり 壱 桂秋(けいしゅう)が、都で開業している町医者の蘇朔(そ・さく)に弟子入りして二年ほどになる。 桂秋の父親は数年前に体を壊して以来ほぼ寝たきりで、そんな父親のためになることがあればと、当時から往診に来てくれていた蘇朔に弟子入りを願い出たのだ。 蘇朔は初老の男性で、大変腕が良いと評判の医者だ。 診てもらいたいとやってくる患者は後を絶たない。 そんな医者のもとで、桂秋は毎日朝から晩まで働いていた。 忙しいけれども大変やりがいがあり、帰宅してからも熱心に書物を読んで勉強していた。 そんな桂秋のことを母親は気にかけて、早くどこかにお嫁になどと言っていたが、桂秋はどこ吹く風だった。 そんなある日のこと。 午後、患者が途切れた隙に、蘇朔に来客があった。 応対に出た桂秋に、男性は丁寧に一礼した。 「蘇先生はいらっしゃるでしょうか」 男性の顔色は悪くはなく、どうも病人ではないようだ。 往診の依頼だろうかと桂秋が思っていると、男性は続けた。 「陸仙強(りく・せんきょう)先生からの使いで参りました。そうお伝え願えますでしょうか」 はい、と答えつつ、桂秋は内心首をかしげた。 どこの陸先生だろう。 そう思いながら、裏にいた蘇朔に声をかけると、彼もまた首をかしげた。 ただし彼の疑問は、桂秋のものとは異なっていた。 「陸仙強からの使い?何かあったのだろうか」 「お知り合いの方ですか?」 「昔、ともに学んだ仲でな。いまは宮中で侍医をつとめているのだが」 「侍医?」 そう言われてみれば、桂秋は聞いたことがあった。 蘇朔は、現在の侍医とは師を同じくする仲であることを。 同時期に、同じ師のもとで学んだそうだった。 当然、旧知の仲だ。 「急にどうかしたのだろうか…」 さらに首をひねりつつ、蘇朔は表へと顔を出した。 そして、使いの男性を別室に招くと、桂秋に茶を持ってくるよう言い付けた。 しかし桂秋が湯飲みを運んだときには、男性はもう暇乞いをしているところだった。 そして、蘇朔はもちろん桂秋にも丁重に一礼しつつ去って行った。 椅子に腰を下ろしている蘇朔は、先程までの温和な顔つきとは一変、難しい顔で腕を組んでいた。 侍医からの使い、というのは、どういうことなのだろう。 その陸仙強個人に関することなのだろうか。 はたまた、侍医としての立場から寄越した使いなのだろうか。 それは、後者のようだった。 「陸仙強は、わしなど足元に及ばぬほど優秀な医者でな、だからこそ侍医として陛下のおそばにお仕え申し上げておるのだが」 桂秋が持ってきた湯のみを、蘇朔は取り上げると一口飲んだ。 そしてそこで、声をひそめた。 「わしに、陛下を診てほしいと言うのだ」 「陛下がどうかなさったのですか?」 蘇朔の顔がさらに難しい顔になった。 「あの陸仙強がわからないというのを、わしが診てどうにかなればよいのだが…。ここのところ体調があまりおよろしくないそうだが、いくら診ても原因がわからぬというのだ」 「陛下はまだお若くていらっしゃるのに、どうなさったのでしょう」 「ご本人様は大丈夫とおっしゃるそうだが」 皇帝はまだ二十歳を少し過ぎたくらいだ。 数年前、父帝の崩御を受けて即位し、以来国内は何事もなく治まっている。 「時折息苦しさをお感じになるそうで、頭痛やめまいを伴うこともあるらしい。食欲もおとろえがちで、夜もあまりお休みになれないとか。いろいろ手を施してはいるが、どうにも快方に向かわないらしい」 桂秋の頭の中に様々な病名や薬の名が浮かんだが、自分などが想像できる範囲のことは、侍医であればとっくに思いが至っているだろうと思い、口には出さなかった。 蘇朔も、同じことを思ったようだった。 「陸仙強が直接お見立てしている以上、わしがここでいろいろ推測してみても無意味であろう。ただ、来てほしいというのでうかがってはみるが」 翌日、昨日の使いと同じ男性が馬車でやってきた。 蘇朔を乗せるための馬車だ。 小さいけれども立派な構えの馬車に、近所の人々が何事かと集まってくる。 桂秋は、留守を預かるつもりで見送りに立っていた。 しかし最後、手にしていた薬箱を蘇朔に渡そうとしたところで、彼は言ったのだ。 「おまえも一緒に来なさい。話は通してあるから」 「え?」 「助手を一人連れて行くからと言ってある」 「よろしいのですか?」 蘇朔はうなずく。 そばにいる使いの男性も、何も言わない。 ということは構わないのだろう。 まあ、今はきっと助手というよりも荷物持ちであろうと、桂秋は薬箱を持ったまま師の隣に乗り込んだ。 それに桂秋も、皇帝の体調というものに興味はあった。 医者の弟子としての興味だ。 なにしろ、侍医が診てもわからないというのだ。 一体どういうことなのだろうと思うと、自分もこの目で見てみたいし、診てみたいと思う。 馬車は街のにぎわいの中をしばらく進み、やがて宮中の門をくぐった。 宮中に着くと、まず出迎えてくれたのは侍医の陸仙強であった。 蘇朔と同年代の初老の男性だ。 「おお、蘇朔、久しぶり。活躍は耳にしておるよ。忙しいところを急に呼び立てて申し訳ない」 「いやいや、それよりも、どうしたんだ。おまえほどの御仁がわからないとは」 陸仙強は首を振る。 そして、そこで蘇朔の後ろにいた桂秋を見やってほほ笑んだ。 「おまえが郭桂秋(かく・けいしゅう)かね。蘇朔から話は聞いているよ。お父上の具合はいかがかな」 「ご心配ありがとうございます。おかげさまで現在は落ち着いております」 陸仙強はほほ笑んだままうなずいた。 が、すぐに蘇朔へ目を転じて顔をしかめた。 「では、もう間もなく曜和(ようわ)さまもお手がすくそうだから診てほしい。曜和さまにももちろんご承知置きいただいているが、なにしろ当のご本人はご自分の体調に興味がおありでないようで」 興味がないとはどういうことだろう? その意味はすぐにわかった。 小さな部屋で三人で待っていると、すぐに人がやってくる。 「陸先生、お待たせいたしました。どうぞ」 その言葉を受けて、陸仙強が蘇朔に声をかけて部屋を出る。 桂秋は、二人の少し後ろからついていった。 部屋を出て廻廊を渡り、別の建物に移る。 薄暗く、少しひんやりとした廊下には、そこはかとなくよい香りが漂っている。 案内してくれた男性は、大きな扉の前で足を止め、中に声をかけた。 「陛下、陸先生でございます」 続けて失礼いたします、と言って外から扉を開ける。 部屋の中は広く、そして明るかった。 窓から日が柔らかく差し込んでいる。 その日の光を浴びて、一人の青年が椅子に腰を下ろしていた。 端正な横顔がこちらに向けられている。 膝の上に書物があるようだった。 [次へ#] [戻る] |